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鹿児島県上野原縄文の森

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カテゴリー: 考古ガイダンス

考古ガイダンス第49回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第49回 太古の時間をかけ抜ける高速道
  • ■東九州自動車道■
  • 国分IC~末吉IC位置図国分IC~末吉IC間の遺跡地図
  • 1 福山城ケ尾遺跡,2 前原・和田遺跡,3 供養之元遺跡,4 永磯遺跡,5 高篠遺跡,6 高篠坂遺跡
    7 九養岡遺跡,8 財部城ケ尾遺跡,9 踊場遺跡,10 耳取遺跡
  • 2000年3月,隼人東IC-国分IC間を結ぶ高速道路が開通しました。九州島の東側を,鹿児島市から北九州市まで結ぶ東九州自動車道(418キロ)の一部です。道路を建設する予定地には遺跡が発見されることがよくあります。その場合,道路建設工事前に遺跡の発掘調査をすることになっています。昔の人々がどんな道具を用い,どのような生活をしていたのか調べ,記録として残すためです。

    国分IC~末吉IC間では13か所の遺跡が発見され,県立埋蔵文化財センターによって,文化財保護のための発掘調査が行われました。今回はこの路線上から発見された遺跡の中からいくつかを取り上げ,紹介してみたいと思います。
  • ■なぞの礫群(前原・和田遺跡)■
  • 福山町北西部の標高390メートルのシラス台地上にある前原・和田遺跡では,約2万年前(後期旧石器時代)の「礫群(れきぐん)」と呼ばれる遺構が10か所確認されました。この礫群は,こぶし大の礫が直径約30センチ,深さ約15センチの穴に10数個ほど詰められており,周辺には礫が散らばった状態で検出されました。また,この礫群はゆるやかな尾根に沿ってほぼ一直線上に一定の間隔をおいて規則的に配置されています。

    礫群の用途は詳しくはわかっていませんが,礫の間やまわりから炭化物が大量に見つかっていることや礫が焼けていることなどから,礫自体を焼いて用いた調理施設ではないかと考えられています。日本での類例は少ないのですが,シベリアでは穴の中に動物の皮などを敷き,水に熱した礫を入れて煮炊きをしたと思われる「ミルクストーン」という遺構が発見されています。

    その後相次いで,同様の遺構が桐木遺跡で15基,耳取遺跡で70基以上発見され,後期旧石器時代の様相が次第に明らかになりつつあります。
  • ■日本最古のヴィーナス像(耳取遺跡)■
  • 耳取ヴィーナス財部町の耳取遺跡では,この礫群の近くから,人為的に線を刻んだ石(線刻礫)が発見されました。

    この石製品は,卵大の頁石(けつがん)製で,長さ約5センチ,幅約4センチ,厚さ約2.5センチと小さいのですが,正面下方が山形にふくらみ,下縁部に逆V字形状の溝があり,ふくらんだ部分は女性の腹,溝は女性器を表現しているとみられます。背面には斜めに17本の刻んだ線があり,髪の毛あるいは衣服を表しているようです。

    このことから線刻礫は,頭部や手足を省略したヴィーナス(女性像)であると考えられます。また,お守りとして常に手に握っていたのか,全体に光沢が見られ,手ずれによるものと判断されています。旧石器人は,女性の姿に豊かな実りや,子孫繁栄の願いを託したと考えられています。ただ獲物を追うだけの生活だったのではなく,豊かな精神文化を持っていたようです。
  • 【写真 耳取ヴィーナス】
  • まわりに出土した炭化物を年代測定した結果,約2万4,000年前(後期旧石器時代)のものであることがわかりました。日本最古の線刻礫ということになります。
  • このほか,線刻礫の出土した層からは,剥片尖頭器と呼ばれる槍先も多数出土しています。耳取遺跡では,下から剥片尖頭器→台形石器や小型のナイフ形石器→細石器と出土し,層序によって旧石器時代の石器の変遷を追うことができます。
  • ■各時代のインターチェンジ(桐木遺跡)■
  • 旧石器時代の礫群跡インターチェンジが建設された末吉町の桐木遺跡は,旧石器時代から中世まで多くの時代や時期にわたる遺跡です。
     
    縄文時代草創期では,薩摩火山灰(約11,500年前)の下層から隆起線文土器が出土しています。これは,掃除山遺跡や栫ノ原遺跡など県内各地で出土している幅の広い粘土ひもをはりつけた土器(隆帯文土器)とは異なり,文様の線も細く,土器の厚さも薄いものです。

    【写真 旧石器時代の礫群跡】
  • このような隆起線文土器は本県で初めての出土です。また,調理施設と考えられる集石遺構も発見されました。
  • 縄文時代早期では,桜島から噴出したP11(約7,400年前)と呼ばれる火山灰層の上位で貝殻文系の塞ノ神B式土器が,下位で撚糸文系の塞ノ神A式土器が出土しました。このことから,二つの土器の時間的な前後関係が,塞ノ神A式土器→B式土器となる可能性が出てきました。また,竪穴住居跡や集石遺構も発見されています。

    縄文時代中期(約5,000年前)の層からは条痕文(じょうこんもん)を施した南九州の土器に交じって,現在の瀬戸内海沿岸地方に多く見られる土器(船元式土器)が一緒に見つかりました。当時,南九州地方と瀬戸内海地方との間に何らかの交流があったことをうかがわせます。また,石鏃(せきぞく)や石匙(いしさじ)などの石器類も大量に出土しています。
  • ■埋められた壺(福山城ヶ尾遺跡)■
  • 深鉢出土状況
    【写真 深鉢出土状況】
    福山城ヶ尾遺跡出土遺物
    【写真 福山城ヶ尾遺跡出土遺物】
    福山町の城ケ尾遺跡は標高358メートルのシラス台地に立地しています。旧石器時代から古墳時代にわたる遺跡です。縄文時代早期後葉(約7,000年前)の塞ノ神式土器の深鉢が1個,壺3個がほぼ完全な状態で発見されました。これらの土器は地面に掘った穴(土坑)に意図的に埋められていたと思われます。一体,何のために埋められたのでしょうか。
    (詳しくは第38回「福山城ヶ尾遺跡 ~壺に秘められた思い~」参照)
  • また,同じ時期の土製耳飾りや異形石器も発見されました。なお旧石器時代の遺物も多く,約1万6,000年前のものと思われる土坑も発見されています。
  • ■その他の関連遺跡■
  • 福山町の供養之元遺跡や永磯遺跡では,縄文時代中期の落とし穴が多数発見されました。財部町の高篠坂遺跡や九養岡遺跡では,縄文時代早期の集石が多数発見されました。財部町の高篠遺跡では,古代の掘立柱建物跡が11棟検出され,奈良・平安時代ごろに使用された土師器(はじき)と呼ばれる土器が多く出土しました。

    また,財部町の城ケ尾遺跡では,奈良・平安時代のものと思われる蔵骨器(火葬した骨などをいれた容器)が発見されました。財部町の踊場遺跡では,1471年の桜島噴火の際に降った文明軽石に覆われた中世の畑の跡が発見されました。
  • ■あなたの車はタイムマシン■
  • 以上,東九州自動車道建設路線内にある遺跡の調査成果を紹介してきました。ご覧の通り,旧石器時代から中世まで多くの時代にわたる遺跡が存在します。まさに太古の時間をかけ抜ける高速道路と言えるのではないでしょうか。 

    国分IC-末吉IC間の道路を利用するときは,道路の下に数多くの遺跡が眠っていたことをぜひ思い出してください。この時あなたの車は,時間をさかのぼるタイムマシンになるはずです。
  • (文責)宗岡 克英

考古ガイダンス第48回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第48回 南九州の縄文晩期
  • ■ひときわ鮮やかな緑の勾玉■
  • 翡翠の首飾り青森県の三内丸山遺跡。今から約4,000年から5,000年前の巨大な竪穴住居跡や栗の大木を使った建物跡が発見されたのをはじめ,土器や石器・木製品などが大量に出土しています。その大半は色あせ,遙かな時の流れを感じざるをえませんが,その中で,ひときわ鮮やかなみどりー翡翠(ひすい)色ーの勾玉(まがたま)が目に飛び込んで来ます。その感動は,昔も今も変わりません。

    【写真 翡翠の首飾り(市ノ原遺跡出土のものを含む)】
  • 同じ石が東市来町の市ノ原(いちのはら)遺跡で出土したときも,ほのかな緑の輝きに感嘆の声が響きました。勾玉や大珠(たいしゅ)として縄文人の胸元を飾った翡翠は,その色と堅さで古くから多くの人々を魅了してきました。その美しさは,実は途方もない力によって生まれるのです。
  • 翡翠の原産地は新潟県の糸魚川(いといがわ)。その奥の山脈は地殻(ちかく)の変動によってその身を軋(きし)ませます。軋みは熱と圧力を産みます。圧力は多くの蛇紋岩(じゃもんがん)を産み,その一部が更なる圧力によって翡翠となるのです。
  • 科学分析の結果,市ノ原遺跡のそれは糸魚川の翡翠であることが判明しました。新潟のほか日高・飛騨などで産出する翡翠は日本各地の遺跡で見つかっています。縄文時代晩期,鹿児島県内の数か所に翡翠らしい石が出土している遺跡があります。加世田市の上加世田遺跡もそのひとつです。
  • ■まつり■
  • 加世田市役所の脇を流れる万之瀬川の右岸。その小高いところに上加世田遺跡があります。当初,その遺跡は個人によって調査されました。昭和43年,教職を定年退職したばかりの河口貞徳氏は加世田市の県道工事の周辺で土器片が出土したことを聞きました。現地で調査したところ,縄文晩期の遺跡であることが判明しました。周辺は宅地造成される計画であり,ことは緊急を要しました。途中,学生や教員の加勢もありましたがほとんどは河口氏1人による土との格闘でした。その結果,埋納土器(まいのうどき)や玉類・岩偶など祭祀跡(さいしあと)を思わせる貴重な発見につながりました。
  • ■埋められた土器■
  • 埋納土器-形を保ったまま埋められた土器のことです。鹿児島県外では,死んだ子供を土器の中に入れて埋葬した例や,竪穴住居内に埋め込んでいろりとして使用した例があります。
  • 本県でも,縄文時代のいくつかの時期に埋納土器が出現します。上野原遺跡でみられる早期後葉(約7,500年前)の埋納された壺には彩色があり,火にかけた痕跡も見られます。また,縄文時代晩期の上加世田遺跡の埋納土器の1つからは,磨石(すりいし)が1個入っていたものが発見されました。この類例は鶴田町の田間田(たまた)遺跡にもみられます。このように埋納された土器の目的は備蓄なのかまたは埋葬なのか,まだよくわかりません。
  • ■大量生産■
  • 埋納に使われた土器は,多くは丁寧な作りをしています。縁飾りの文様があって薄く堅く黒く磨かれた土器-黒色磨研土器と呼ばれるこの土器は九州一円に分布しています。その一方で遺跡に散らばる大量の土器のほとんどは,分厚く肌のざらざらした製品です。炭化物がこびり付き,そのほとんどが底の部分を欠いており,火にかけて煮炊きされたものと思われます。
  • 浅鉢と深鉢のように用途の違いで形の違う土器はそれ以前にも存在していましたが,このような作りの違いはこれまでにはありませんでした。普通,土器は粘土の紐を輪状に積み上げる「輪積み」という方法で作ります。これに対して,粗製土器の一部は,型作りの技法を用います。型に粘土を押しつけて,乾いたところで型から外すと出来上がりです。ろくろがまだ無いこの時代特有の「大量生産」の技術です。
  • ■編み布■
  • 組織痕土器そんな土器に特有の痕跡があります。作業工程で付いた跡です。型から土器を外しやすいように土器と型の間に布を敷きます。その痕跡から,これらの土器は組織痕土器(そしきこん)と呼ばれています。それをみると当時の布は織機(しょっき)で織ったものではなく,現代のすだれと同じような編み方をした編み布であったことがわかります。
  • 【図 組織痕土器(榎木原遺跡)】
  • 編み布(アンギン)を編む子供たち越後(えちご)地方で長く野良着(のらぎ)等の布として作られていた布とそっくりなことから,アンギンとも呼ばれています。糸は野生の麻-苧麻(ちょま)-の表皮からとれる繊維(せんい)をつないで撚(よ)ったものです。この繊維は16世紀に綿花が日本に伝わるまで多く使われました。

    【写真 編み布(アンギン)を編む子供たち】
  • 綿花にとって代わられたのは,糸を作るのに多くの工程(こうてい)を要するせいでしょう。くきから皮をはぎ,発酵(はっこう)させ水にさらすなど,繊維を得るのに幾日もかかります。ようやくできた繊維を一本一本手でつないで糸をつむぎます。それから布を編むのです。
  • それにしても,古来土器には時代ごとに様々な文様がありました。凝った意匠(いしょう)は見て感動する一方,どうしてここまでする必要があったのだろうかとも思います。多分,文様は単なる飾りではないのです。おそらくは当時の人々が生きていくのに何らかの意味で必要不可欠なものだったのでしょう。
  • 人々にとって,生き物の体と魂をいただくための「うつわ」はただの器であってはいけなかったのかもしれません。縄文時代が始まって1万年が過ぎ,その意識が大きく変わり始めています。
  • ■新しい時代■
  • 縄文時代晩期は,地域による時期差はあるものの,弥生時代開始までの約700年ほど続きます。その後の稲作を主体とする弥生文化は,多種多様な土器や石器の利用により,それ以前とは生活様式が一変します。その大きな変化の理由は何か,なぞを掘り起こす作業はまだまだ続きます。
  • 用語解説
  • 岩偶 岩石で作られた偶像。人形(ひとがた)が主だが動物の形もある。
    大珠 翡翠などの石を磨き穴をあけたもの。7センチ前後で長楕円形のものが多い。ひもを通して身を飾るものとして用いられたらしい。
    勾玉 主にC字形に湾曲し,片方の端に穴をあけた飾り玉。動物の牙に紐を通して首にかけたのが由来といわれる。土製・石製・ガラス製などある。
  • (文責)元田 順子

考古ガイダンス第47回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第47回 南島の特色ある墓制
  • ■広田遺跡の二層で異なる埋葬方法■
  • 薩南・トカラ・奄美諸島の埋葬遺跡現在,亡くなった人は,火葬(かそう)を行うことが法律で決められています。しかし,昔は地面に穴を掘って埋める,土葬(どそう)が一般的でした。

    この土葬の方法は,時代や地域によって大きな違いがありました。それは,集団によって死者に対する考え方が違うことによるようです。

    ここでは,弥生時代から古墳時代の埋葬(まいそう)について,種子島,トカラ列島そして奄美・沖縄諸島の島々の様相を例に見ていきたいと思います。

    熊毛郡南種子町(種子島)にある広田(ひろた)遺跡から,約200平方メートルの範囲内に,ほぼ1,700~1,800年前に埋葬された,150体以上の人骨が,上・中・下3層で検出されました。そのうち特に,下層から出土した古い時期の人骨と,上層から出土した新しい時期の人骨とでは,埋葬方法が異なっていました。
  • 【図 薩南・トカラ・奄美諸島の埋葬遺跡】
  • 熟年女性が多数を占めた下層出土の人骨は,女性の場合,例外なくひざと首とを縄でしっかりしばった屈葬(くっそう)が行われ,美しい模様が彫られた貝符(かいふ)や貝小玉(かいこだま)・貝輪(かいわ)などの装身具(そうしんぐ)が埋められていました。

    一方,男性人骨は脚をゆるくしばる屈肢葬(くっしそう)が行われていました。
    屈肢葬での埋葬人骨を検出した遺跡としては,中種子町(種子島)の鳥ノ峯(とりのみね)遺跡や西之表市(馬毛島)の椎ノ木(しいのき)遺跡があり,種子島を含む薩南諸島では,主に屈肢葬や屈葬が行われていたようです。
  • ■トカラ列島から南位では主に伸展葬で■
  • 屈肢葬(イメージ図)ところが,注目されるのは,同じ種子島で時期もほぼ同じ西之表市の田ノ脇(たのわき)遺跡では,両脚をまっすぐ伸ばした姿勢で埋葬する伸展葬(しんてんそう)が行われていたことです。
     伸展葬による埋葬人骨を検出した遺跡としては,鹿児島郡十島村(宝島)の大池(おおいけ)遺跡や大島郡笠利町(奄美大島)の宇宿(うしゅく)貝塚,そして大島郡伊仙町(徳之島)の面縄第一貝塚(おもなわだいいちかいづか)などがあります。
  • 【図 屈肢葬(イメージ図)】
  • 伸展葬(イメージ図)さらに南に位置する沖縄諸島でも,多くの遺跡で伸展葬による埋葬人骨が検出されており,トカラ列島から奄美・沖縄諸島にかけては主に伸展葬で埋葬されていたようです。
     このことからも,薩南諸島とそれより南の島々とでは,埋葬方法が異なることが明らかになりつつあります。
  • 【図 屈肢葬(イメージ図)】
  • 最初に述べた広田遺跡では,屈葬や屈肢葬が行われた下層人骨に対して,より新しい時期の上層から出土した人骨では,再葬(さいそう)が行われていました。再葬とは,遺骸を仮葬した上で,肉や皮が消滅したあと骨をまとめ,改めて別の1つの墓に集めて,集団で埋葬する方法です。

    この方法で埋葬された人骨は,奄美諸島では検出されていませんが,沖縄諸島では数遺跡で見つかっており,奄美諸島での検出が期待されています。
    南西諸島では,亡くなった人を聖地にそのまま置き,数年後に家族が骨を洗い,改めて埋葬する儀式を最近まで行っており,民俗例でも代表的な埋葬方法として頻繁に紹介されています。
    このような儀式の始まりが,弥生時代から古墳時代の時期にまでさかのぼる可能性があることは,大変興味深いことです。

    ところで,広田遺跡における下層人骨と上層人骨との違いは,副葬品にも見られます。
    上層人骨に副葬された貝符は,ひもを通す穴がないことから,日常の生活で使われたのではなく,副葬(ふくそう)するためのもののようです。 
    弥生時代に相当する時期の沖縄では,副葬品にシャコガイなどの自然海産物が多いといわれています。この特徴について池田榮史(いけだよしふみ)琉球大学教授は,海浜への依存度が高いことや,死や死者に対する呪力(じゅりょく)を期待した魔除け(まよけ)的な性格が極めて強いことを指摘しています。
  • ■貝符や貝小玉が出土■
  • このことから副葬品として作られた貝符についても精巧な製品ではありますが,「呪力への期待」や「魔除け的な性格」を示す副葬品として考えることが可能であり,注目できます。
    また,下層人骨につけられた貝輪は主にオオツタノハという貝で作られていました。それに対して,上層人骨では主にゴホウラ貝で製作されていたのです。
    ゴホウラ貝製の貝輪は,弥生時代には北部九州の権力者たちに,呪力の強いものとして大変好まれたようです。このゴホウラ貝製の腕輪を上層人骨の多くが身につけていることは,生前だけでなく,死者に対しても呪力を期待したものとして注目できるでしょう。

    今まで見てきたように,地域や時代によって,埋葬方法に違いがあります。このことは,その時,その地域に生きる人々の,死者に対する想いに違いがあることを明らかにしているようです。
    つまり,死者の魂の「復活」を恐れるのか,それとも死者の魂を敬い「再生」を祈るのかといった死者に対する気持ちの動きは,現在に生きる私たち個人に,そしてまた,社会にも通じる気持ちであるのだと遺跡は訴えかけているようです。
  • 用語解説
  • 貝符
    (かいふ)
    イモガイなどを長方形あるいは蝶(ちょう)の形にみがいて整えたのち,その表面に模様を彫り込んで作ったもの。貝札(かいさつ)ともいう。
    貝小玉
    (かいこだま)
    ツノガイやノシガイなどを素材としてビーズのようにつないで首飾り(ネックレス)や腕飾りにした。特に,広田遺跡からは多量に出土している。
    貝輪
    (かいわ)
    オオツタノハ,ゴホウラ,イモガイなど南海で産出する貝を素材として作った腕輪。九州では弥生時代以降,権力者が身につけていた。
    副葬
    (ふくそう)
    死者が日頃身につけていたものや,その地位を明らかにするために持っていたもの,魔除けや邪をはらうものなどを,死体に添えて埋めること。
    南西諸島
    (なんせいしょとう)
    鹿児島県種子島から沖縄県波照間島まで南に連なる島々の総称。さらに,種子島・屋久島などの薩南諸島,口之島から宝島までのトカラ列島,奄美大島から与論島までの奄美諸島,沖縄本島とその周辺の島々からなる沖縄諸島,そして宮古島や石垣島とその周辺の島々からなる先島諸島に分けられる。
  • (文責)八木澤 一郎

考古ガイダンス第46回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第46回 弥生研究の中心・高橋貝塚
  • ■弥生日記■
  • よしのぶ  -僕の名前はよしのぶといいます。今,小学校最後の夏休みを利用して,福岡から金峰町のおじいちゃんの家に遊びに来ています。-

     『8月○日晴れ
    きょうは朝早く,おじいちゃんと一緒に近くの玉手(たまて)神社まで散歩に出かけました。……』
    おじいさん
  • ■高橋貝塚で■
  • おじいちゃん 「何をお願いしたんだい?」
    よしのぶ 「うん。夏休みの宿題が無事に終わりますようにって。」
    おじいちゃん 「鹿児島での思い出も日記に書いてみたらどうかな。」
    よしのぶ 「うん,そうするよ。ところでおじいちゃん,どうしてこの神社の地面には貝殻が落ちているのかな?」
    おじいちゃん 「貝塚(かいづか)だからだよ。」
    よしのぶ 「貝塚?」
    おじいちゃん 「そう。ここは高橋貝塚といってな。今から40年くらい前に発掘調査があって,縄文時代の終わりごろから弥生時代の人たちが食べた貝の殻が捨てられた場所らしいよ。」
    よしのぶ 「へぇー,そうなんだ。僕の住んでいる福岡にも弥生時代の遺跡があるんだって聞いたことがあるけど,何か関係があるのかな?」
    おじいちゃん 「そういえば今,町内で発掘調査をやってるはずだから,一緒に行ってみよう!」
  • ■貝塚は宝箱■
  • 調査員 「貝塚は全国で約3,000か所あるといわれているんです。高橋貝塚は吹上浜に近い場所にありますから,昔から貝がたくさん取れたんだと思います。」
    よしのぶ 「貝以外のものは食べなかったのかな?」
    調査員 「貝が主食だったのではなく,おそらく古代人は動物の肉や木の実,米や畑作物などの不足を補うため貝を食べていたのでしょう。貝はこれらの食料に比べて栄養価(カロリーなど)が低く,たくさん取って食べる必要があるからなんです。」
    おじいちゃん 「貝塚って,昔の人々のゴミ捨て場なんですよね。」
    調査員
    調査員
    「発掘調査では,現在のゴミ捨て場とはちょっと違う見方をするんですよ。日本では昔から火山活動が活発に繰り返されてきたため,土壌(どじょう)は酸性が強く,動物や魚の骨などは長い年月の間に土にかえってしまいます。ところが貝塚では,大量の貝殻で土壌がアルカリ性に保たれ,一般の遺跡では発見されにくいものが腐らずに残されています。考古学にとっては,まさに宝箱みたいな存在なんです。」 よしのぶ
    よしのぶ 「おもしろいなぁ。中には何が入っているんだろう?」
    調査員 「それでは,宝箱のふたをあけてみることにしましょう。」
  • ■貝の道■
  • 調査員 「高橋貝塚で発見された貝のなかに,ゴボウラ・オオツタノハというものがあります。これらの貝は奄美より南の,サンゴ礁の海でしか取れないものです。」
    おじいちゃん 「…ということは,ここまで運んできた人たちがいるんですね。」
    調査員 「そうなんです。もうひとつ興味深いのは,これらの貝で貝輪(かいわ)がつくられていることです。未製品(制作途中のもの)も,たくさん見つかっています。」
    よしのぶ 「貝輪って何ですか?」
    調査員 「今のブレスレット(腕輪)のようなものです。弥生時代になると,北部九州を中心に貝輪を身につける習慣がもてはやされ,なかでもゴホウラ製の貝輪が大切にされたようなんです。」
    よしのぶ 「わぁ。福岡ともつながりがあったんですね。」
    調査員 「はい。例えば飯塚市の立岩(たていわ)遺跡の甕棺(かめかん)というお墓には,貝輪を右腕に14個もはめた男性がほうむられていました。北海道でも貝輪が発見されているんですよ。」
    よしのぶ 「飛行機やフェリーのない時代に,すいぶん遠くまで運ばれたんですね。」
    調査員 「弥生人は丸木舟(まるきぶね)という舟で海を渡っていたと思われます。高橋貝塚の貝製品は,南海でとれた貝が舟によって運ばれ,加工された後,北部九州などへもたらされていたことを教えてくれました。考古学ではこういったルートのことを『貝の道』と呼んで研究しています。」
  • ■米作りのあかし■
  • 調査員 「弥生時代の特徴のひとつに稲作があります。中国大陸や朝鮮半島から日本に伝わったと考えられています。昭和26年に福岡県の板付(いたづけ)遺跡から炭化した米や籾痕土器(もみこんどき)が出土したことによって,稲作文化の始まりが日本で初めて証明されたんです。」
    よしのぶ 「籾痕土器って何ですか?」
    調査員 「籾のあとがついた土器のことです。弥生人が土器づくりをしている時,近くにあった籾が偶然くっついてしまったんでしょうね。籾痕から米があったことがわかりますし,稲の種類を知るうえでも重要な手がかりを提供してくれます。」
    おじいちゃん 「土器を細かく観察することが,大きな発見につながるんですね。」
    調査員 「この発見以来,『弥生文化は北部九州から始まった』と考えられるようになりましたそして高橋貝塚でも板付遺跡とそっくりの土器が大量に発見され,その中には籾痕土器も含まれていたのです。」
    おじいちゃん 「鹿児島でも早くから米作りが行われていた可能性があるんですね。」
    調査員 「高橋貝塚では水田の跡こそ見つかっていませんが,石庖丁(いしぼうしょう)や農作業で使う道具(クワやスキなど)を作るための抉り入り石斧(えぐりいりせきふ)・ノミ形石斧(のみがたせきふ)などの石器が発見されています。さらに,米を貯蔵(ちょぞう)するための甑(こしき)という土器も出土していますから,米作りの証拠はほとんどセットでそろっています。」
  • ■水田跡の発見は?■
  • よしのぶ 「水田跡が見つかった遺跡はないんですか?」
    調査員 「鹿児島大学構内(かごしまだいがくこうない)遺跡で,弥生時代中期の水田跡が発見されています。水路に利用された溝や稲の切り株の跡,人の足跡らしいものも見つかっています。遺跡が低湿地(水気の多い低い土地)にあるため,台地の遺跡では発見されにくいものが水にパックされた状態で見つかっています。貝塚が宝箱なら,こちらは天然の冷蔵庫といった具合でしょうか。」
    よしのぶ 「遺跡のある場所によって,いろいろ違いがあるんですね。」
    調査員 「今後,低湿地の発掘調査が行われた場合,水田跡が発見されるかもしれません。しかし,今までに発掘された遺跡で,高橋貝塚と同じ時期のものは決して多くはないんです。そういった意味から,高橋貝塚は鹿児島県の弥生時代研究の中心となっています。」
  • ■米作りが始まって何年?■
  • おじいさん
    おじいちゃん 「きょうは,いい勉強になったね。」
    よしのぶ 「うん。今から2,000年以上前の時代には,米作りが始まっていたんだね。…。おじいちゃん,なんだか僕,おなかすいちゃった。」
    おじいちゃん 「それじゃ,晩ご飯にしよう。米作りから始まって数えて何回目の収穫になるのかな。さあ,とれたての早期米で炊いたご飯だよ。」
    よしのぶ 「いただきまーす!」
    …今日のお米の味は,なんだか弥生の味のように感じられました。
    よしのぶ
  • ◆籾痕土器の出土した遺跡
    高橋貝塚(金峰町)  下原遺跡(金峰町)  市ノ原遺跡(東市来町)   魚見ケ原遺跡(鹿児島市など)
  • ◆高橋貝塚出土の自然遺物 (発掘調査による)
    ○貝類  ナガガキ・オシジミ・ハマグリ・マシジミ・タケノカワニナ・ウミニナ・マルタニシ
     ギンタカハマ・ウスカワマイマイ・アズキガイ・ゴホウラ・オオツタノハなど43種類
    ○魚類  サメ・サバ・スズキ・エイ・マダイ
    ○ほ乳類  イノシシ・シカ・イヌタヌキ・アナグマ・テン・ノウサギ・サル・クジラ
    ○ハ虫類  ウミガメ
  • 用語解説
  • 石庖丁 長方形や半月形をした扁平(へんぺい)な石器で,長い辺の片方だけ刃がつくられています。稲などの穂をつみとるための道具です。
    抉り入り石斧 長方形の柱状の形をした石器で,柄(え)を固定するためのえぐり(くぼみ)を持つ石製の斧(おの)です。木材の加工に使われました。
    ノミ形石斧 大工道具の鉄製のノミに似ていることからつけられた名前で,木材を平らにするために使われた石斧です。別名石ノミとも呼ばれます。
    甕棺 大型の甕形土器(かめがたどき)の棺(ひつぎ)のことです。
  • (文責)三垣 恵一

考古ガイダンス第45回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第45回 橋牟礼川遺跡
  • ■火山灰に埋もれたムラ■
  • 開聞岳大宰府が報告してきた。去る3月4日の夜,薩摩国従四位上開聞の神が鎮座する山の頂に火があり,真っ赤に焼けた。雷が轟き夜通し振動した。噴火の音や地響きは,100里以上離れたところでも聞こえ,社の近くの人々は恐怖のあまりふるえて,肝をつぶした。明け方になっても天気は陰うつで,昼間も夜のように暗かった。噴煙は天をおおい,灰や砂が雨のように降った。色は墨のように真っ黒で,一日中止むことはなかった。
    【写真 開聞岳】
  • 噴煙は天をおおい,灰や砂が雨のように降った。色は墨のように真っ黒で,一日中止むことはなかった。その砂粒が降り積もった厚さは,あるところでは5寸,またあるところでは1寸あまりであった。夕暮れ時には,砂粒に変わって雨が降ってきた。この雨にぬれた作物は皆枯れてしまい,川の水は砂粒を含んでさらに濁った。無数の魚や亀が死んだ。人々の中にはその死んだ魚を食べたものがおり,ある者は死に,ある者は病気になった。
  • ■建物が倒れる様子■
  • 建物が倒れる様子1
    ①貞観16年3月4日,開聞岳噴火。火山礫が降下し,建物周辺に堆積する。
    木の埋没1
    根の近くの盛り上がりにそって火山礫が堆積する。
    建物が倒れる様子2
    ②火山礫の後,細粒の火山灰が降下,建物の屋根及び周辺に堆積する。
    木の埋没2
    細粒の火山灰が木に堆積する。
    建物が倒れる様子3
    ③火山灰降下途中より,雨も降り出す。堆積した火山灰の重みで建物が倒れる。
    木の埋没3
    木は立ち枯れたまま,火山灰の中に埋没していく。
    建物が倒れる様子4
    ④建物崩壊後,細粒の火山灰のみが水と一緒に建物内部に侵入する。木材は腐食し,空洞化する。
    木の埋没4
    木は腐食し,中に細粒の火山灰が侵入する。
    これは今から約1,100年前,貞観16年3月4日(西暦874年3月25日)開聞岳が大噴火した時の様子で,『日本三大実録』という古文書の中に記されている内容です。環境の変化や人々の様子など詳しく記録されており,火山災害の恐ろしさが伺えます。

    指宿市に国指定史跡である橋牟礼川遺跡があります。この遺跡を初めて発掘した京都帝国大学の浜田耕作博士は,「先史時代のポンペイ」と呼んでいます。

    この遺跡で1988年の発掘調査時に,火山灰による倒壊家屋が発見されました。発掘調査によって明らかになった災害の様子は図の通りで,先ほどの『日本三代実録』の史実と一致します。当時の様子を文字と地中の両面から知ることができる貴重な資料です。

    このほかにも災害で埋まった村の跡が発見されています。畠跡では畝(うね)跡と道跡,杭列が見つかっています。さらに,古墳時代から流れていた川が,噴火の際に起きた土石流で埋まっていました。

    これは先ほどの『日本三代実録』の中の「川の水が-」に当てはまります。また,この遺跡からは役所があったのではないかと考えられる墨書土器,硯(すずり),刀子(とうす),青銅製の丸鞆(まるとも)などの遺物も多数発見されています。

    さて,災害が起こったその後はどうなったのでしょうか。このことも『日本三代実録』の中に次のように記されています。
  • 占ってみたところ「神が封戸(ふこ=神社の維持財源として税を納める戸)を求めている。神社が穢(けが)れている。よってこのようなたたりをなした」という結果が出た。そこで天皇は,勅(命令)を発し,封戸,20戸を開聞神に奉ることにした。

    政府はこの災害を重く受け止め,対策に苦慮したようです。
  • 火山灰の重みで倒壊した建物跡また,この遺跡では,古墳時代から奈良時代の貝塚が発見されています。しかし,この災害後の貝塚は,全く見つかっていません。住民たちは,復興のめどが立たず,この地を離れたのでしょうか。それとも魚や貝が全くとれなくなってしまったのでしょうか。その真相はまだ明らかになっていません。

    【写真 火山灰の重みで倒壊した建物跡(白線方形の部分)】
  • このように約1,100年前の開聞岳の大噴火は周辺の住民の家屋や田畑を一瞬のうちに呑みこみました。ある者は家族や仲間を失ったかもしれません。人々は,その後何十年もの長い間苦しい生活を強いられたに違いありません。
  • 大正時代には,桜島の大噴火がありました。かなりの被害を受けたことは記憶とともに記録として残っています。数年前,長崎県の雲仙普賢岳も大爆発を起こしました。火山弾が降り注ぎ,火砕流が流れ出し,火山灰が降り積もりました。さらにそれが雨によって土石流となり,人々の生活を一瞬にして呑み込みました。この時の様子は,新聞やテレビで報道され,記憶に新しいです。最近も北海道の洞爺湖畔にある有珠山が火山活動を活発化し,周辺の住民は避難活動を余儀なくされています。このように火山災害は,火山大国日本において,大昔から避けては通れないものです。その中で過去にいつ,どのような被害があり,どのように対処し復興したかを知ることは,これからの災害対策の1つとして重要な手掛かりとなるに違いありません。
  • ■火山災害の多い鹿児島■
  • 開聞岳付近の地層福山町の藤兵衛坂段遺跡では,文明ボラに覆われた畠跡が広い範囲で発見されています。この文明ボラについては,『三国名勝図会』に1470年代の桜島の噴火活動の様子として記されています。福山町・大隅町などに多く見られ,30~50センチメートル積もっており,かなりの被害があったと予想されます。文明の大噴火は今まで17回あった桜島の大噴火の1つです。
  • 【写真 開聞岳付近の地層】
  • また,全国でも有名なアカホヤ,シラスも鹿児島県内の火山噴火によるもので,それぞれ鬼界カルデラ(硫黄島南沖),姶良カルデラ(鹿児島湾奥)を起源としています。
  • シラスに関しては,北は北海道南部,東は朝鮮半島に至るまで広範囲にわたって確認されており,地球規模の爆発だったことが分かっています。このほかにも池田カルデラ(池田湖),阿多カルデラ(鹿児島湾口)など鹿児島では大昔から多くの火山活動があったのです。
  • ■縄文土器と弥生土器■
  • 弥生土器1916年。その頃,縄文土器(当時アイヌ式土器と呼ばれていた)と弥生土器の違いは,地域の違い,つまり民俗の文化の違いという考え方が有力でした。しかし,同年夏,当時の考古学会を揺るがす歴史的な発見があったのです。
    旧制志布志中学校に通う西牟田少年が,指宿に帰省していた時のことでした。少年が近所を歩いていると,あるところで2種類の土器を見つけました。これは何の土器だろうと思った少年は,その土器を学校に持ち帰り,瀬之口伝九郎先生に見せたところ1つは縄文土器(指宿式土器),1つは弥生土器(山ノ口式土器)であることがわかりました。
  • 【写真 弥生土器の破片】
  • 縄文土器それから1年後,喜田貞吉博士が同校を訪れました。博士は,当時『土器の違いは民俗の文化の違い』という考えをもっていた有名な考古学者です。2つの土器を見た喜田博士は,同じ場所にあるのは不思議だと思い,後日現地を踏査してみました。さらに地元の学者にも調査を依頼しました。このことは喜田博士の『九州旅行談』の中に記されています。調査の結果,遺跡の存在が確認され,翌年1月,考古学雑誌第8巻第7号で紹介されました。世間はその報に大いに沸きました。
  • 【写真 縄文土器の破片】
  • 1918年1月。喜田博士からその話を聞いた京都帝国大学の浜田耕作博士は,宮崎に出張の際,指宿まで足を延ばし,半日だけでしたが発掘調査を行いました。浜田博士は,『土器の違いは時代の違い』という考えをもっていた考古学者です。博士は翌年の1919年4月にも,再び調査を行っています。
  • この発掘調査で驚くべき事実が明らかになりました。それは,1つの火山灰層をはさんで,上に弥生土器,下に縄文土器が発見されたのです。これにより2つの土器の違いは民族の違いではなく,時代の違いであることが分かったのです。もちろん,日本で最初のことであり,この発見により日本の歴史は縄文から弥生へと移り変わっていくという説が証明され,現在の考古学の基盤となっています。

    大正13年(1924年),世間に大きな衝撃を与え,学術的にも重要な役割を果たした橋牟礼川遺跡は国の指定を受け,『国指定遺跡』として保存・整備・活用され今日に至っています。
  • 用語解説
  • ポンペイ イタリアにある町。ヴェスヴィオ火山の噴火により埋没した。
    墨書土器 墨で文字や記号の書かれた土器。
    刀子 ナイフ・小刀。武器ではなく日常利器としての機能が強い。
    丸鞆 平安時代の役人や貴族の冠位を表すベルトの装飾品。
    貝塚 人が貝殻を廃棄した場所。
  • (文責)西村 喜一

考古ガイダンス第44回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第44回 アジアに開ける交易
  • ■中世の交易と持躰松遺跡■
  • 持躰松遺跡中世の交易は私たちが考えるよりもはるかに広い範囲で行われていました。現代の長距離輸送はトラック輸送・船舶輸送・航空輸送といった陸・海・空の手段によってなされています。その中の大部分は陸の輸送手段であるトラック輸送であるとも言われています。
    中世の輸送手段は馬・船・などによる輸送で,陸・海の二種類でした。現代とは異なり長距離輸送は船舶輸送が主でした。このことは全国各地の中世の遺跡から,海を隔てた中国からの輸入陶磁器が大量に出土することからも理解できます。
  • 【写真 持躰松遺跡と万之瀬川・吹上浜】
  • 金峰町には持躰松(もったいまつ)遺跡があります。金峰町と加世田市の境界を流れる万之瀬川(まのせがわ)沿いに立地する遺跡です
  • 中世の12世紀から13世紀頃の輸入陶磁器・国産陶器などが鹿児島県内では比較的大量に出土しています。12世紀後半の頃は平氏政権の積極的な施策により中国の宋の貿易船が瀬戸内海を通って摂津(せっつ)の大輪田泊(おおわだのとまり)まで入るようになりました。その航路の途中には肥前や薩摩にも寄港していたといわれており,持躰松遺跡周辺は万之瀬川を背景とした広域な交易に関する場であった可能性も考えられます。

    この頃,現在の日置郡一帯に強い勢力を持っていたのは阿多氏です。この一族は肥前~薩摩~南西諸島とのつながりを持っていたことから,持躰松遺跡は阿多氏に関係する可能性もあります。
  • ■南島系陶質土器とカムィヤキ古窯跡■
  • 同じ金峰町内に位置する小薗(こぞの)遺跡では溝状遺構によって囲まれた区域内から少なくとも5軒以上の掘立柱建物跡と竪穴遺構が発見され,持躰松遺跡とほぼ同時期の陶磁器などが出土しています。中国との交易になんらかの形で関与していた有力者の関連施設であった可能性のある遺跡です。また,この2つの遺跡からは南島との交易に関わるものが発見されています。「南島系陶質土器(なんとうけいとうしつどき)」「類(るい)須恵器」などと呼ばれているもので,南西諸島で多く出土しています。現在のところ出土地をみると最南端は沖縄県波照間(はてるま)島,最北端は出水市出水貝塚です。今後,さらに発見例が増える可能性が高いと思われます。
  • 窯の断面模式図この南島系陶質土器は徳之島伊仙(いせん)町のカムィヤキ古窯(こよう)跡群で焼かれたものです。
    カムィヤキ古窯跡群は1977年に発見され,11世紀から13世紀にかけて使用されていたことが明らかになりました。また,これまでの調査によって東西約2km,南北約1kmの範囲に数基~10数基の窯を単位とした11グループの古窯支群が確認されました。

    【図 窯の断面模式図】
  • これらの大半は国有林の山中にあり,保存状態は極めて良好です。南島の中世の交易を考える上でもこれからの調査・研究が期待されます。
  • ■沈没船の積荷か?倉木崎海底の遺物■
  • 倉木崎海底遺物の様子大島郡宇検村倉木崎(くらきざき)の海底からはサンゴや海藻が付着した青磁・白磁の碗・皿などの破片が多数発見されました。これらの陶磁器は12世紀後半から13世紀前半の頃の遺物で,南宋の龍泉窯(りゅうせんよう)などの窯で焼かれたものが中心を占めています。

    【写真 倉木崎海底遺物の様子】

    南宋で焼かれた磁器は日本をはじめ,東南アジアなどへも流通しており,重要な交易品であったことがわかります。持躰松遺跡などで発見されている輸入品も南宋産のものです。これらの遺物が海底に散乱した状態で眠っていることについては,交易船の沈没か,交易船がなんらかの理由で積荷を廃棄したかのどちらかが考えられます。
  • 南西諸島で大量に発見される中国製の陶磁器は12世紀以後のもので,どちらにしてもこの頃に交易船が行き来していたことは間違いなさそうです。この背景には12世紀後半に中国が宋から金・南宋へ移行することと,中国の商業集団の活発化の影響が考えられます。この時に南島は停泊地・給水地となり,硫黄・ヤコウガイなどが交易品とされたでしょう。これらの交易活動によって物や情報を吸収し,新しい文化を築いていくのです。
  • ■アジアへ開ける「大交易時代」■
  • 持躰松遺跡の交易圏持躰松遺跡では中国と日本の商人による商業活動の痕跡が14世紀頃までみられます。その後の持躰松遺跡は畠地となり交易の跡は見る影もなくなくなってしまいます。この持躰松遺跡などに代表される時期を経て「大交易時代」と呼ばれる14世紀末から15世紀中頃にかけて琉球が中継貿易でおおいに栄えた時代へと突入し,南西諸島だけでなく日本全体ひいては東南アジアまで含めた大きな地域の交易が行われるようになるのです。

    持躰松遺跡をはじめとする万之瀬川流域の調査はまだ続きます。これから明らかになることや新たな事実の発見などもあるでしょう。
  • 複雑な様相を持つ中世の交易に関する研究はまた新たな展開を見せるかもしれません。これからも中世から目が離せません。
  • 用語解説
  • 摂津 現在の大阪府と兵庫県の一部
    ヤコウガイ 螺鈿(らでん)細工の原料となる巻き貝。奥州平泉でも出土例がある
    硫黄 火薬の原料になる
  • (文責)上床 真

考古ガイダンス第43回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第43回 隼人が用いた土器
  • 鹿児島県内の遺跡をまとめた最初の『遺跡地名表』を見ると,弥生時代後期と書かれた遺跡が非常に多いことがわかります。また,その時期の土器の形式名を調べてみると,「成川式土器」という名称の土器の記述がずいぶんと多いことに気が付きます。それこそが「隼人が用いた土器」といわれる土器なのです。昭和32年に発見された成川遺跡出土の土器を標準とする土器群です。
  • ■成川遺跡■
  • 成川式土器出土の主要遺跡薩摩半島の南端の指宿市市街地から旧国道を南に行くと山川の港が見えてきます。鹿児島の内部にあって,外海に背を向けた天然の良港です。その山川湾を左に見ながら狭い切り通しを右に入ると,成川の集落が広がってきます。

    集落を見下ろす南の端の小高い丘の中腹をバイパスが通り,かつてここに成川遺跡がありました。そこは,隼人たちの「奥津城(おくつき)」,共同墓地でした。

    昭和32年,山川湾の埋め立てのためにこの地の土を掘って利用することになりました。近くを通り掛かった人が,人の骨らしい物がおびただしく散乱していることに気付き,指宿高校の教師に通報しました。

    この教師は現地を確認し,ことの重大さを認識し,直ちに鹿児島県教育委員会(以下県教委)に連絡しました。県教委は直ちに工事を一時中止させると共に,短期間での調査を行うこととしました。
  • 調査の結果,ここは弥生時代ごろの墓地であること,遺跡は広域に広がることなどがわかり,貴重な遺跡であることから調査団組織による発掘調査が必要であることが判明しました。この結果を受けて,翌33年に文化財保護部(現在の文化庁)が主体となって本格的な調査が行われました。そして,200数十体にもおよぶ人骨が出土して,この時期としては全国的にも有数の墓地として知られるようになったのです。
  • 成川遺跡の土坑墓群報告書は調査が行われてしばらく経って刊行されました。その中で,遺跡の時代に触れ,この墓地が弥生時代中期から営まれているのは事実ですが,その下限については,地元の考古学者と中央の考古学者とでは若干見解が異なっていたようです。

    【写真 成川遺跡の土坑墓群(奥手に見えるのは開聞岳)】

    それは,ここから大量に出土した,当時の呼び方で『薩摩式土器』という形式の土器がどの時代まで使われていたか,という問題でした。地元の学者は,弥生時代からの土器の変化からこれを弥生時代後期に位置付け,これに対して中央の学者はこの土器に土師器に類似した土器が伴うことから古墳時代まで下げることを主張しました。
  • その結果,この遺跡をどの時代の遺跡と呼べばよいのかという戸惑いが起こってしまったといえます。そのことは,ここで大量に出土し,この成川遺跡を指標とする『成川式土器』をどの時代・時期の土器と呼べばよいのか,ということにも問われることになりました。
  • ■成川式土器■
  • 成川遺跡で出土した大量の土器の大部分は,壺と高坏(たかつき)と呼ばれる種類の土器でした。これは,遺跡が(共同)墓地という性格によるものと考えられます。といいますのも,死者との別れに際して“あの世”での新しい生活に“この世”から持っていってもらうお供え物を盛るものとして添えられたものだからです。日常的に使っていたカメなどがほとんど見られないのもそのためでしょう。
  • ■成川式土器の形の変化■
  • 器形の時代変化成川式土器は,南九州の弥生時代の土器の形から変化を遂げていったと考えられています。ここでは,主として形状変化の割合が明瞭に追い掛けられるカメについて述べることにします。壺や高坏等については図に載せました。

    成川遺跡にもあった弥生時代中期のカメは,口が本体に対してほぼ直角になるように付いており,“逆L字形”と呼ばれる形状となります。また,底にはどっしりとした高い円柱状の“あし”が付きます。

    これが後期になると,本体に対して口が斜めに上がる,つまり,上向きになる“く字”の形状となります。また,底も高い上げ底となって広がってきます。

    この辺りから南九州が文化的に停滞していたといわれるわけですが,この弥生時代後期の土器の形状が,基本的に変わらず,口の部分が内側に倒れてくる“内傾”あついは“内彎(ないわん)”と呼ばれる,見た目には極めて小さな変化でしかなくなってきます。

    そしてこのことが,成川遺跡出土の土器を弥生後期と見るか,古墳時代と考えるか,という当時の見解とつながっていたのです。
  • ■成川式土器の終末■
  • 成川遺跡の土坑墓群の遠景このようにして,上げ底となる土器の一群が“隼人の用いた(時代の)土器-成川式土器”と呼ばれ,南九州に定着するに至ったわけですが,今度はこの土器がいつまで使われたか,という問題が起こってくることになりました。これは,当然といえばあまりに当然ではありますが,つい最近まで「成川式土器は,すでに土師器や須恵器を伴って出土すること(が多い)ことから,古墳時代の地方色の濃い土器であろう」と考えられていて,成川式土器イコール古墳時代として決定したかにみえていました。
  • 【写真 成川遺跡の土坑墓群の遠景】
  • 成川遺跡土坑墓から発見された人骨しかし,ことはそれほど簡単にはいきませんでした。成川式土器の“本場”成川からほど遠い,指宿市橋牟礼川遺跡から奈良時代に噴出した火山灰に覆われた層から成川式土器が見つかったのです。当時の日本の中央部からもたらされた須恵器と同じ層からの出土でした。

    【写真 成川遺跡土坑墓から発見された人骨】
  • こうして,遺跡の発掘という地道な調査と運命的な出会いという幸運によって,この土器が奈良時代まで使用されていたことが判明しました。時あたかもこの南九州の地が,“隼人の国”と呼ばれていた時代でした。
  • 弥生時代後期からほとんど変わることのない土器の形,500年程を祖先から受け継いだ形の土器で過ごしたわたしたちの地域の先人たちは,どのような感慨を抱いて“日本”という統一的な国家の中に組み込まれていく様を見つめていたのでしょうか。

    壺や高坏といった中央からの文化や文物を受け入れる一方,カメに象徴されるような意固地とも思える地元の道具を自らの“遺産”として子や孫に,そして,その子孫たちに引き継いで行こうとしたと考えるのは,自分だけの感傷にすぎないのでしょうか。奈良時代の終わりから平安時代になると,そこは全国共通の土師器しか見られなくなり,隼人達の虚しい抵抗は終末を迎えました。
  • (文責)繁昌 正幸

考古ガイダンス第42回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第42回 強者どもの拠り所
  • ■中世山城■
  • 鹿児島県内中世城館跡分布図1鹿児島県内中世城館跡分布図2
    鹿児島県内中世城館跡分布図3鹿児島県内中世城館跡分布図4
    鹿児島県内中世城館跡分布図5鹿児島県内中世城館跡分布図6
  • 空堀の発掘調査(向栫城)武士が際だった存在であり,その力量を存分に発揮していた平安後期-戦国時代(中世)において,所領争いの決着手段は合戦でした。そして武士の拠(よ)り所となるのが城です。

    城というと,立派な天守閣(てんしゅかく)や高い石垣,周りを囲む堀などを思い浮かべるかも知れませんが,現在目にするような城の多くは,豊臣秀吉(とよとみひでよし)の天下統一以降のもので,中世の城の中心は自然の地形を利用した山城(やまじろ)でした。

    源平の戦いのころから鎌倉時代後期にかけては,騎馬武者(きばむしゃ)が一対一で名乗りながら戦うのが合戦の基本でした。その後,集団で戦うようになると,防御する側は館(やかた)の周りに堀を作り,柵(さく)を置き,高い足場を作った砦(とりで)や城郭(じょうかく)を築くようになりました。
  • 【写真 空堀の発掘調査(向栫城)】
  • 南北朝時代に入り,全国各地で合戦によって勢力を確保して成長させようとする者が登場してくると,内乱が頻発(ひんぱつ)し,日常化してきます。そこで,城の防御機能を強化するために,自然の地形が作り出した見晴らしが効き,近寄りがたく,一定の平たんな台地や丘,山に城を築きました。そして戦闘の際は,そこに籠(こも)って戦いました。
  • はじめは応急的なもので,簡単な造りであったと思われますが,合戦の長期化に伴い次第に整備され,○○城と呼ばれるような山城が登場し,中世の城の中心的なものとなりました。
    特徴として,築城の際に自然の地形を利用して郭や曲輪(くるわ)を配置したり,空堀(からぼり)や門,石塁(せきるい)・土塁(どるい)などの施設を築くことで防御性の高い縄張り(なわばり)を確立していることが挙げられます。

    近世の城が建物や堀,石垣など目に見えるのとは対照的に,中世山城は遺構の大半が地中に埋まっています。これは,山城が自然の地形を利用したもので,自然景観に溶け込む性格が強かったので,建設物は質素で実用的なものが多く,文化的・芸術的価値はあまり高くなかったのでしょう。
    今現在,全国には2,5万~5万程度の中世山城があると推定されていますが,大部分はその範囲の確定もなされていないものが多いです。
  • ■県内には600余の山城■
  • 鹿児島県には600余の中世山城があり,貴重な文化財として調査研究され,保護と活用が進められています。ここで,県内各地にある中世山城の中からいくつか紹介します。
  • 国指定遺跡 知覧城◆知覧(ちらん)城跡 (知覧町永里・国指定遺跡)

    シラス台地特有の直立した崖(がけ)を利用して築かれた,南九州型の代表的な山城です。遺構の保存状態は極めて良好で,平成5年には国指定史跡となっています。近世の重要伝統的建造物として有名な,知覧麓の前身としても重要な意義があります。

    【写真 国指定遺跡 知覧城跡】
  • 帯曲輪の取り巻く苦辛城跡全景◆苦辛(くらら)城跡 (鹿児島市山田町)

    自然の川や崖を利用した連郭式(れんかくしき)山城で,郭には土塁が見られ,緩やかな斜面には郭を守るための帯曲輪(おびくるわ)の取り巻きがあります。その台地では,旧石器から中世・近世までの生活のあとがみられます。

    【写真 帯曲輪の取り巻く苦辛城跡全景】
  • ◆向栫(むかいがこい)城跡 (東市来町伊作田)
    山の斜面の裾野(すその)に位置し,城に伴う炉跡(ろあと)や大型土坑(どこう),空堀,国内外の陶磁器などが見つかりました。
  • ◆平泉(ひらいずみ)城跡 (大口市山野)
    自然地形を利用した九つの曲輪からなる多郭式山城で,それぞれの曲輪は造成が行われ平たん面を構築しています。歴史的に軍事上・交通上の要地として室町時代から近世初期ごろまで活用されていました。
  • この他にも代表的な山城として,清色(きよしき)城跡(入来町浦ノ名),高山(こうやま)城跡(高山町新富),志布志(しぶし)城跡(志布志町),蒲生(かもう)城跡(蒲生町下久徳),などがあります。

    1587年5月,豊臣秀吉は九州勢に対して,「城割(しろわり)」を発令しました。一郡一城のみとし,必要な城のみを残して他を破壊することで,秀吉が全国を厳しく統治することとなりました。これをもって山城の理念としての存在が否定され,形として存続したとしても,強者(つわもの)どもが拠(よ)り所とした中世山城は終わりを迎えたのです。

    現在に残る中世山城跡は,わたしたちに生きた歴史研究の貴重な素材を提供してくれています。開発などでその形を変えてしまう前に,史跡公園などに整備して保存の努力をしているところもあります。
  • 用語解説
  • 郭(かく) 建物のある平たんな区域
    曲輪(くるわ) 防御のために造られた区域で,連なったものや単独のものがある。
    空堀(からぼり) 水のない掘り下げた堀で,別名堀切ともいう。
    帯曲輪(おびくるわ) 敵の侵入を防ぐため,取り巻くように空堀を何本もめぐらした曲輪。
    石塁・土塁
    (せきるい・どるい)
    石を積み上げたり土を盛り上げて築いた小さなとりで。
    炉跡(ろあと) 火を使って煮炊きをしていた場所の跡。
  • (文責)平木場 秀男

考古ガイダンス第41回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第41回 安定した海辺のくらし -前期の貝塚-
  • ■はじめに■
  • 縄文前期の西海岸の主な貝塚貝塚と言えば,「ゴミ捨て場」あるいは「タイムカプセル」などと言われます。それは,貝塚が昔の人々が食べたものや使った道具などを捨てた場所であると同時に,当時の生活の様子を現代まで伝えてくれる場所だからです。

    鹿児島県の貝塚は,古いもので縄文時代早期(10,000年~6,000年前)後半の隼人町宮坂貝塚がありますが,数が増えるのは縄文時代前期(6,000年~5,000年前)になってからです。出水市荘貝塚・阿久根市波留貝塚,吹上町小野貝塚,金峰町阿多貝塚・上焼田遺跡,西之表市小浜貝塚,中種子町苦浜貝塚などがこの時期のものです。
  • 【図 縄文前期の西海岸の主な貝塚
    (1 荘貝塚,2 波留貝塚,3 薩摩国分寺跡,4 小野貝塚,5 上焼田遺跡,6 阿多貝塚)】
  • ■貝塚と縄文海進■
  • 阿多貝塚近景上の地図を見てください。何か不思議に思うことはないでしょうか。貝塚をつくった人々は貝や魚を食糧としていたはずですが,どうして海岸線から貝塚まで離れているのでしょうか。
    例えば,阿多貝塚は海岸から約4キロの内陸部・標高9メートルの台地縁辺部に位置しています。他の貝塚遺跡も同じように現在の海岸線より離れ,平野部よりも少し高い台地上に形成されています。
    【写真 阿多貝塚近景】
  • これは海岸線の変化がもたらしたものなのです。つまり,この時期は海岸線が貝塚のすぐ近くにあり,貝や魚をより捕りやすい環境にあったことが予想されるのです。
  • 約1万年前から地球は温暖化にむかい,これに伴って海面の上昇が始まりました。海水面の変化は地球の気候と関係があり,温暖になると北極・南極の氷が溶けて海水面が上がり,逆に寒冷化すると氷が発達し下がるという具合です。この地球の温暖化によって海水面が上がり,海岸線が現在よりは陸地に入りこんだことを「海進」と呼んでいます。縄文時代早期に始まる海進(縄文海進)は前期中葉にピークに達し,その後気候が寒冷化し,海岸線は沖の方へ向かっていきます。これを「海退」と呼びます。
  • ■貝塚とアカホヤ火山灰■
  • 貝の出土状況(阿多貝塚)ところで,鹿児島県の貝塚は縄文前期に数が増えたと書きましたが,縄文海進によって海産物を手に入れやすかったはずの縄文早期の人々は,貝や魚を食べていなかったのでしょうか。

    貝塚は食糧とした大量の貝殻を捨てた場合に残り,少量の貝殻は酸性土壌の中では溶けてなくなってしまいます。
    【写真 貝の出土状況(阿多貝塚)】
  • それから考えると,鹿児島の早期の縄文人は貝を食べていなかったというよりは,貝塚を形成するほどの大量の貝をあまり必要としなかったということも考えられます。では,縄文前期になって大量の貝を食糧として利用したのはなぜでしょうか。それは,火山活動による自然環境の大きな変化と関係があるとも言われています。
  • 鹿児島県には桜島をはじめとして,火山がいくつもあります。その中の硫黄島(いおうじま)・竹島付近にある「鬼界カルデラ」の大爆発により,南九州は大量の火山灰に覆(おお)われ,大きな打撃をうけました。約6,400年前(縄文早期の終わり頃)に噴出したこの火山灰は「アカホヤ火山灰」とよばれ,遠く関東地方まで達していることが確認されています。

    この結果,動植物はもちろんのこと人的被害も大きかったことが予想されます。それまで森林がもたらせてくれていた木の実や,シカ・イノシシといった動物などの食糧源が大きく減少してしまったと考えられるからです。その後,縄文前期の人々が食糧を求めて海へ向かうのも当然のことだったでしょう。
  • ■貝塚からの出土品■
  • それでは,阿多貝塚をはじめとする貝塚から出土した物から,当時の生活を考えてみましょう。
    まず,食糧としていた貝の種類は,ハマグリとマガキが多く出土しています。これは全国的な傾向です。動物ではイノシシ・シカがほとんどです。イノシシは現在のものと同じくらいの大きさですが,シカは大型であったことが残された骨からわかっています。
  • 轟式土器の破片次に生活用品のなかで煮炊(にた)きに使われた土器は,轟(とどろき)式や曽畑(そばた)式と呼ばれる土器が多く出土します。これらの土器を使って貝や動物の肉を調理していたのでしょう。また,貝や魚を捕る道具と考えられるものも出土しています。

    【写真 轟式土器の破片】
  • 骨格器(右が骨針・左は鏃状のもの)阿多貝塚の骨製の鏃(やじり),荘貝塚のアワビを起こしたりカキを割る道具ではないかと考えられる石器(三日月形石器や円盤形石器)などがそうです。編み物に使われたのではないかと考えられる骨針も阿多貝塚から出土しています。もちろん,木の実などをすりつぶしたりした磨石(すりいし)などもあります。

    【写真 骨格器(右が骨針・左は鏃状のもの)】
  • けつ状耳飾り(半分欠けている)両遺跡からは「けつ状耳飾」(けつじょうみみかざり)と呼ばれるアクセサリーが出土しています。アクセサリーを身につけるのは,縄文後期(約4,000年~約3,000年前)が全盛期といわれていますが,縄文前期にもおしゃれの習慣があったわけです。一か所に切れ目のある輪状の耳飾りですが,うすい板状のものに孔(あな)をあけ,溝をつくる高度な技術を持っていたことに驚かされます。
    【写真 けつ状耳飾り(半分欠けている) 】
  • 阿多貝塚と荘貝塚は,それぞれ縄文前期だけでなく,その後も生活していた跡が残されていることから,環境的にも住みやすい安定した場所であったことと考えられます。
  • ■おわりに■
  • このように単なる「ゴミ捨て場」とも言われていた貝塚ですが,現代の我々にいろいろと有益な情報を与えてくれます。このことはおそらく縄文人が意図してやったことではないでしょう。

    ところで,現代人はどうでしょうか。未来に悪影響を与えるであろうと予想されることを子孫に残すことはないでしょうか。もう一度,日々の生活を見つめなおす必要があるかもしれません。我々は,意図して有益なものを子孫に残してやりたいものです。
  • (文責)前野 潤一郎

考古ガイダンス第40回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第40回 未来への懸け橋
  • ■見事な4連アーチの西田橋■
  • 西田橋右岸の石橋創建時の反力石と明治43年の石橋改修時の土留石垣西田橋は4連アーチの見事な石橋で,甲突川に架(か)けられていた五石橋の中の一つです。肥後(現在の熊本県)の石工(いしく)岩永三五郎(いわなが・さんごろう)らを招いて架けられました。

    この橋は鹿児島城(鶴丸城)内への表玄関として重要な位置にあり,明治初期まではそのたもとに御門(ごもん)が建てられていました。欄干(らんかん)には青銅の擬宝珠(ぎぼし)柱がつけられ,ほかの四石橋より格式高くつくられていました。
  • 【写真 西田橋右岸の石橋創建時の反力石と明治43年の石橋改修時の土留石垣】
  • 平成5年8月6日の集中豪雨は未曾有(みぞう)の大洪水を引き起こし,甲突川五石橋のうち新上橋(しんかんばし)と武之橋を流出させました。
  • そのため,甲突川の抜本的な河川改修事業により移設されることが決定し,西田橋たもとの調査が行われました。この調査によって,石橋が架けられる前にあった木製の橋のころ,石橋が作られたころ,明治時代に改修されたころ,の各時期の遺構がそれぞれ発見されました。
  • ■最新装備の薩摩藩「集成館」■
  • 明治5年,祇園之洲砲台場と浜町西田橋の移り変わりは,明治維新に関わった人物たちとも深い関係があります。ここではその基盤を作った二人の人物を中心に説明したいと思います。
    調所広郷(ずしょ・ひろさと)は,河川改修・財政改革などを行いました。これらの改革は「薩摩の天保(てんぽう)の改革」と呼ばれています。この改革の成功により薩摩藩は50万両を蓄え,富強の藩へと生まれ変わりました。島津斉彬(しまづ・なりあきら)の「集成館」(しゅうせいかん)事業による軍事科学事業もこの改革の成功によって可能となったのです。
  • 【写真 明治5年,祇園之洲砲台場と浜町(尚古集成館)】
  • 河川改修事業では,甲突川の土砂で天保山(てんぽざん)を,稲荷川の土砂で祇園之洲(ぎおんのす)を築いて水害を防ぐことに貢献しました。この時に甲突川の五石橋も架けられました。

    天保8(1837)年にアメリカ船が佐多・山川沖に現れると対外的に緊張状態となり,数個所に砲台(ほうだい)が置かれました。そのうちの一つが祇園之洲砲台です。この砲台は仙巌園(せんがんえん)に隣接した工場群「集成館」の反射炉(はんしゃろ)で鋳造(ちゅうぞう)されたものでした。
  • ■国内最大規模の反射炉■
  • 「集成館」の反射炉跡は鹿児島市教育委員会によって調査されました。この時発見されたのは,3基建設された反射炉のうちの2号基と考えられています。2つの炉を持ち,国内最大の規模であったことが明らかになりました。

    西洋の技術を使った反射炉の建設は,島津斉彬が第28代藩主になって最初に手がけたものです。これを用いることで,これまで日本の技術では不可能だった鉄製大砲の鋳造が可能になりました。そのすぐ横には,わが国初の溶鉱炉(ようこうろ)が造られました。

    これにより,品質にばらつきのない鉄を生産することができ,高品質の鉄製砲が造られました。また,火薬製造なども行われました。鹿児島市教育委員会によって調査された滝ノ上(たきのかみ)火薬製造所はその一つです。この調査で,火薬の製造施設の可能性のある石組みが発見されました。当時,日本で唯一の大規模な火薬工場であったといわれていますが,一部が調査されただけで詳細は不明です。

    斉彬は明治維新を見ることなく急逝しますが,彼がつくらせた「集成館」などの工場群によって薩摩藩の最新装備は支えられ,やがて明治維新の原動力の一つとなっていきます。これらの装備によって,薩英戦争においても薩摩藩はイギリスよりも旧式の装備ながら善戦することができました。しかし,西欧の科学力をまのあたりにして,これ以後西欧の技術を積極的に取り入れ,近代化を進めていきました。

    産業面においても,慶応3(1867)年にわが国初の洋式機械紡績工場である鹿児島紡績所が操業を開始しました。その建設や技術指導にはイギリス人技師があたりましたが,この時に彼らの住まいとして建設されたのが現在,重要文化財となっている異人館です。
  • ■石橋公園■
  • 西田橋(石橋公園)現代の西田橋は大水害の後,平成の河川改修事業によって移設され,高麗橋・玉江橋とともに石橋公園として公開されています。

    まず平成11年4月に高麗橋と玉江橋の本体部分が完成し,続いて同年10月に西田橋の本体部分が完成しました。この石橋公園の場所は浜町遺跡にあり,砲台の置かれた祇園之洲は稲荷川を隔てた隣に位置しています。
    【写真 西田橋(石橋公園)】
  • また,天保年間(江戸時代)の『鹿児島城下絵図』の中に「抱真院(ほうしんいん)」,「神明社(しんめいしゃ)」,「島津山城殿下屋敷(しまづやましろどのしもやしき)」などがあったとされています。
  • この遺跡は西田橋の移設に伴って調査されました。調査の結果,絵図に描かれた区画や建物・井戸などの跡,当時の椀(わん)や皿などの生活用具が発見されました。さらに,建物の廃材や石を田の字形に並べて埋め立てを行って整地した場所から,当時の生活道具の中でも普通は残りにくい木や竹などで作った道具が数多く出土しました。これら江戸時代の人々の家具や履き物を通じて,当時の鹿児島城下に住んでいた人々の生活がうかがえます。

    五石橋は江戸時代の河川改修によって架けられた橋ですが,そのうち三石橋は移設されることで本来の橋としての役割は全うしました。しかし,未来への懸け橋として子孫に受け継がれていくのです。
  • 用語解説
  • 五石橋 甲突川に架けられていた西田橋と新上橋,武之橋,高麗橋,玉江橋の五つ。
     この中で西田橋は弘化3(1846)年に架けられた。
    仙巌園 鹿児島市吉野町磯にある旧島津家別邸
    反射炉 たき口からの炎と,その炎が天井に反射した熱によって金属・鉱石を溶かすもの。
    木札 墨書された荷札などのこと。
  • (文責)上床 真