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投稿者: 管理人

器台状土器(中津野遺跡:南さつま市金峰町)

縄文時代後期(約4,000年前)の器台状の土器です。指宿式土器ですが,この二つの土器は,胎土・色調・焼成等から,本来は同一個体(一つの土器)だったと考えられます。

外側に文様が巡る,かなり装飾性の高い土器です。何かを乗せたり,真ん中の穴に何かを挿したりして使っていたのでしょうか。

みなさんは,どのように使っていたと思いますか?

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(217)「中津野遺跡 低地部・低湿地部編」第1分冊,第2分冊第3分冊

舷側板part2(中津野遺跡:南さつま市金峰町)

以前紹介した,弥生時代前期後半(約2,500年前)の船の部材(準構造船の舷側板)の一部を,拡大して映したものです。磨製石斧などの石器を使って穴をあけた痕跡が,はっきりわかります。幅がわずか2~3cmほどの石器で,穴をあけるのは,とても大変だったと思います。当時の人々の苦労の痕跡が見て取れます。

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(217)「中津野遺跡 低地部・低湿地部編」第1分冊,第2分冊第3分冊

穴部分拡大

穴部分拡大

舷側版

 

 

 

轟B式土器(牧山遺跡:鹿屋市)

縄文時代前期の土器です。口縁が一部欠けていますが,完形の土器です。

土器の厚さが大変薄くて,丁寧なつくりです。口縁部と胴部の破片が出たら別の土器にしそうです。

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(44)「牧山遺跡3(縄文時代前期以降編)」第1分冊第2分冊

 

四国との繋がり? 松ノ木式系土器(山ノ中遺跡:鹿児島市)

約4,200年前の縄文時代後期前半の土器です。形と文様は四国中央部に位置する松ノ木遺跡(高知県)の標式土器に似ていますが,胎土は指宿地方のものに近いです。

この土器を,誰がどこで作り,どのような経緯で山ノ中遺跡で使われたのか知りたいものです。

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(103) 「山ノ中遺跡」

かごしま考古ガイダンス第17回「海や山へ広がる縄文人の活動」

 

「ハシゴ」(中津野遺跡:南さつま市金峰町)

弥生時代に使われていた木のハシゴです。この場所は水がたくさん湧き出る場所だったため,木はくさらずに残っていました。ハシゴは直径が15cm程度の小型で持ち運びできるサイズです。木に切り込みを入れてステップを作り,今の脚立みたいに使われていたのでしょうか。

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(217)「中津野遺跡 低地部・低湿地部編」第1分冊

 

雨漏り修繕工事実施に伴う3階展望所の利用休止について

日頃より上野原縄文の森にご来園いただき誠にありがとうございます。
この度、雨漏り修繕工事を実施するため、下記期間中、展示館3階展望所の利用を休止させていただきます。皆様には大変ご迷惑をおかけしますが、何卒ご理解の程お願い申し上げます。
○3階展望所利用休止期間:令和6年3月9日(土)~3月23日(土)※予定
※上記の他に、足場の搬入出作業等のため、2階休憩所の利用を休止させていただく場合がございます。予めご了承ください。

【北山遺跡1(南九州西回り自動車道建設)】報告書番号(51) ~その5~

鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターでは,令和4年度に4冊の発掘調査報告書を刊行しました。鹿児島県立埋蔵文化財センターのホームページに掲載されていますのでご覧ください。これらの報告書の中から,注目すべき成果や今後の研究課題などを紹介したいと思います。第6回は,公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書(51)の北山遺跡1~その5~の莫禰(あくね・阿久根)氏編です。

 

【北山遺跡1(南九州西回り自動車道建設)】報告書番号(51) ~その5~

北山遺跡18~39区で検出された中世の遺物や遺構が,13~16世紀に該当することを確認したところで,この地を治めていたとされる莫禰(あくね・阿久根)氏について,現在明らかになっていることを中心に見ていくことにしましょう。

莫禰氏の初代は,平安時代おわりの12世紀中頃に莫禰院司(いんじ:現在の市町村長に相当)となった神崎太郎成兼が,莫禰氏と称したことが始まりだと言われています。平家(へいけ)の下にあり,夫人は薩摩川内市にある新田神社の権(ごん:役職名の前に付く)執印(しゅういん:役職名から姓に引き継がれた)氏の娘のようです。阿久根中学校南側に賀喜(がき)城がつくられたのもこの頃とされます。この時期の遺物は,18~39区ではほとんど出土していませんので,賀喜城もしくは40区より東側に拠点があった可能性もあります。2代成秀は平安時代末期に活躍したようですが,詳細は不明です。

3代成光は鎌倉幕府の御家人(ごけにん:鎌倉殿の家臣)となり,建久8(1197)年の『薩摩国図田帳(さつまのくにずでんちょう)』に記録されています。4代成綱も莫禰院司ですが,詳細は不明です。3~4代の頃,愛宕(あたご)山に阿久根城をつくったと言われています。賀喜城下の海が次第に土砂で埋まって,荷揚げに支障が出てきたからとも言われています。今回報告した地点と遺物の年代に近づいてきました。

5代成友の時,山門院(やまといん:現在の出水市野田町や高尾野町江内周辺)の折田,多田(現在は阿久根市折多小学校区)や高江郷(たかえごう:現在の薩摩川内市高江小学校区周辺)の長崎や寄田を領地としているようです。この頃から6代にかけて,諏訪ノ前遺跡近くの諏訪(南方)神社が高江郷長崎から勧請(かんじょう:分霊を移すこと)されたようです。

6代成忠(貞),7代成重は莫禰郡司となっています。元亨3(1323)年に鎌倉幕府の使者として周辺領主の土地訴訟(そしょう)を調停(ちょうてい)したり,建武4(1337)年には薩摩国,大隅国,越前国へ出兵した記録もあります。14世紀代の出土遺物は,この頃のものと考えられます。

しかし,6代の晩年から8代成村の頃,領地の減封(げんぽう:領地の一部を削減されること)を受け,島津氏に従うようになります。北山遺跡18~39区で,15世紀以降に遺構が少なくなることと関係している可能性があります。

9代良忠になると,出水に拠点をもつ薩州(さっしゅう)島津家の家老(かろう:家臣の内,最も重要な職)となり,莫禰姓から阿久根姓を名のるようになります。10代良守,11代良速,12代良正,13代良有,14代良照と阿久根地頭(じとう:在地の領主)とともに薩州島津家の家老職を務めました。

12代良正は薩州島津家家老として島津本家となる忠良と争います。また,天文16(1547)年に諏訪(南方)神社を改修し,永禄(1558~)年間には新城に居城したことが知られています。山下小学校近くに「莫禰氏供養塔」があり,遠矢地区には,12代良正の法名が刻まれた石塔の一部が残っています。

14代良照の時,豊臣秀吉が九州征伐を行った後,朝鮮出兵の一件で秀吉の怒りをかい薩州島津家は滅びます。そして,文禄2(1593)年に薩州島津家の家老であった阿久根氏も離散することになりました。北山遺跡18~39区で,16世紀代を最後に遺物や遺構がほとんどみられなくなることと重なるようです。

 

阿久根市域には12~16世紀にかけての古戦場跡や古城跡,また当時あった神社や寺院跡などが多く残っています。さらに,ポルトガル王家の紋章が入った「阿久根砲」が阿久根市浜町の海岸で発見されたり,永禄3(1560)年に入港したポルトガル人船長の墓と伝わる「とっぽどんの墓」などがあります。国内だけでなく,世界の海とつながっていた当時の阿久根の様相がうかがえます。

北山遺跡と諏訪ノ前遺跡の整理作業は,今後も続きます。遺跡周辺だけでなく,幅広い視点で報告書をまとめていきたいと思います。新たな情報がありましたら,ご教示ください。

 

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(51)「北山遺跡1」

参考文献

阿久根市誌編さん委員会 1974 『阿久根市誌』 阿久根市

藤崎琢郎 2024 「鎌倉・室町時代における莫禰(阿久根)一族と阿久根・川内地方」 薩摩川内郷土史研究会資料