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鹿児島県上野原縄文の森

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投稿者: try

考古ガイダンス第49回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第49回 太古の時間をかけ抜ける高速道
  • ■東九州自動車道■
  • 国分IC~末吉IC位置図国分IC~末吉IC間の遺跡地図
  • 1 福山城ケ尾遺跡,2 前原・和田遺跡,3 供養之元遺跡,4 永磯遺跡,5 高篠遺跡,6 高篠坂遺跡
    7 九養岡遺跡,8 財部城ケ尾遺跡,9 踊場遺跡,10 耳取遺跡
  • 2000年3月,隼人東IC-国分IC間を結ぶ高速道路が開通しました。九州島の東側を,鹿児島市から北九州市まで結ぶ東九州自動車道(418キロ)の一部です。道路を建設する予定地には遺跡が発見されることがよくあります。その場合,道路建設工事前に遺跡の発掘調査をすることになっています。昔の人々がどんな道具を用い,どのような生活をしていたのか調べ,記録として残すためです。

    国分IC~末吉IC間では13か所の遺跡が発見され,県立埋蔵文化財センターによって,文化財保護のための発掘調査が行われました。今回はこの路線上から発見された遺跡の中からいくつかを取り上げ,紹介してみたいと思います。
  • ■なぞの礫群(前原・和田遺跡)■
  • 福山町北西部の標高390メートルのシラス台地上にある前原・和田遺跡では,約2万年前(後期旧石器時代)の「礫群(れきぐん)」と呼ばれる遺構が10か所確認されました。この礫群は,こぶし大の礫が直径約30センチ,深さ約15センチの穴に10数個ほど詰められており,周辺には礫が散らばった状態で検出されました。また,この礫群はゆるやかな尾根に沿ってほぼ一直線上に一定の間隔をおいて規則的に配置されています。

    礫群の用途は詳しくはわかっていませんが,礫の間やまわりから炭化物が大量に見つかっていることや礫が焼けていることなどから,礫自体を焼いて用いた調理施設ではないかと考えられています。日本での類例は少ないのですが,シベリアでは穴の中に動物の皮などを敷き,水に熱した礫を入れて煮炊きをしたと思われる「ミルクストーン」という遺構が発見されています。

    その後相次いで,同様の遺構が桐木遺跡で15基,耳取遺跡で70基以上発見され,後期旧石器時代の様相が次第に明らかになりつつあります。
  • ■日本最古のヴィーナス像(耳取遺跡)■
  • 耳取ヴィーナス財部町の耳取遺跡では,この礫群の近くから,人為的に線を刻んだ石(線刻礫)が発見されました。

    この石製品は,卵大の頁石(けつがん)製で,長さ約5センチ,幅約4センチ,厚さ約2.5センチと小さいのですが,正面下方が山形にふくらみ,下縁部に逆V字形状の溝があり,ふくらんだ部分は女性の腹,溝は女性器を表現しているとみられます。背面には斜めに17本の刻んだ線があり,髪の毛あるいは衣服を表しているようです。

    このことから線刻礫は,頭部や手足を省略したヴィーナス(女性像)であると考えられます。また,お守りとして常に手に握っていたのか,全体に光沢が見られ,手ずれによるものと判断されています。旧石器人は,女性の姿に豊かな実りや,子孫繁栄の願いを託したと考えられています。ただ獲物を追うだけの生活だったのではなく,豊かな精神文化を持っていたようです。
  • 【写真 耳取ヴィーナス】
  • まわりに出土した炭化物を年代測定した結果,約2万4,000年前(後期旧石器時代)のものであることがわかりました。日本最古の線刻礫ということになります。
  • このほか,線刻礫の出土した層からは,剥片尖頭器と呼ばれる槍先も多数出土しています。耳取遺跡では,下から剥片尖頭器→台形石器や小型のナイフ形石器→細石器と出土し,層序によって旧石器時代の石器の変遷を追うことができます。
  • ■各時代のインターチェンジ(桐木遺跡)■
  • 旧石器時代の礫群跡インターチェンジが建設された末吉町の桐木遺跡は,旧石器時代から中世まで多くの時代や時期にわたる遺跡です。
     
    縄文時代草創期では,薩摩火山灰(約11,500年前)の下層から隆起線文土器が出土しています。これは,掃除山遺跡や栫ノ原遺跡など県内各地で出土している幅の広い粘土ひもをはりつけた土器(隆帯文土器)とは異なり,文様の線も細く,土器の厚さも薄いものです。

    【写真 旧石器時代の礫群跡】
  • このような隆起線文土器は本県で初めての出土です。また,調理施設と考えられる集石遺構も発見されました。
  • 縄文時代早期では,桜島から噴出したP11(約7,400年前)と呼ばれる火山灰層の上位で貝殻文系の塞ノ神B式土器が,下位で撚糸文系の塞ノ神A式土器が出土しました。このことから,二つの土器の時間的な前後関係が,塞ノ神A式土器→B式土器となる可能性が出てきました。また,竪穴住居跡や集石遺構も発見されています。

    縄文時代中期(約5,000年前)の層からは条痕文(じょうこんもん)を施した南九州の土器に交じって,現在の瀬戸内海沿岸地方に多く見られる土器(船元式土器)が一緒に見つかりました。当時,南九州地方と瀬戸内海地方との間に何らかの交流があったことをうかがわせます。また,石鏃(せきぞく)や石匙(いしさじ)などの石器類も大量に出土しています。
  • ■埋められた壺(福山城ヶ尾遺跡)■
  • 深鉢出土状況
    【写真 深鉢出土状況】
    福山城ヶ尾遺跡出土遺物
    【写真 福山城ヶ尾遺跡出土遺物】
    福山町の城ケ尾遺跡は標高358メートルのシラス台地に立地しています。旧石器時代から古墳時代にわたる遺跡です。縄文時代早期後葉(約7,000年前)の塞ノ神式土器の深鉢が1個,壺3個がほぼ完全な状態で発見されました。これらの土器は地面に掘った穴(土坑)に意図的に埋められていたと思われます。一体,何のために埋められたのでしょうか。
    (詳しくは第38回「福山城ヶ尾遺跡 ~壺に秘められた思い~」参照)
  • また,同じ時期の土製耳飾りや異形石器も発見されました。なお旧石器時代の遺物も多く,約1万6,000年前のものと思われる土坑も発見されています。
  • ■その他の関連遺跡■
  • 福山町の供養之元遺跡や永磯遺跡では,縄文時代中期の落とし穴が多数発見されました。財部町の高篠坂遺跡や九養岡遺跡では,縄文時代早期の集石が多数発見されました。財部町の高篠遺跡では,古代の掘立柱建物跡が11棟検出され,奈良・平安時代ごろに使用された土師器(はじき)と呼ばれる土器が多く出土しました。

    また,財部町の城ケ尾遺跡では,奈良・平安時代のものと思われる蔵骨器(火葬した骨などをいれた容器)が発見されました。財部町の踊場遺跡では,1471年の桜島噴火の際に降った文明軽石に覆われた中世の畑の跡が発見されました。
  • ■あなたの車はタイムマシン■
  • 以上,東九州自動車道建設路線内にある遺跡の調査成果を紹介してきました。ご覧の通り,旧石器時代から中世まで多くの時代にわたる遺跡が存在します。まさに太古の時間をかけ抜ける高速道路と言えるのではないでしょうか。 

    国分IC-末吉IC間の道路を利用するときは,道路の下に数多くの遺跡が眠っていたことをぜひ思い出してください。この時あなたの車は,時間をさかのぼるタイムマシンになるはずです。
  • (文責)宗岡 克英

南の縄文調査室から平成31年2月

  • 平成31年2月5日(火)
  • 20数年前からタイムスリップ!上野原遺跡の集石出現‼
     
    上野原遺跡の集石遺構(切り取り資料)
     
     20数年前の上野原遺跡の切り取り資料を収蔵庫の奥から引っ張り出してみました。遺構の周りを充填していた発泡ウレタンを持ち上げると,発掘当時のままの集石遺構が出現しました。
     今後,土が崩れないように遺構の周りを補強する作業が行われます。そう遠くないうちに,皆さんにお披露目できるのではないかと思います。
    切り取り資料の大きさは,横140㎝,縦120㎝です。
  • 20年が経っているとは思えないほどの生々しい土の質感です。
     
    ※3枚目の写真をクリックすると,遺構出現の瞬間がご覧頂けます。(別画面が開きます。)
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    集石遺構切り取り移設作業の様子(当時)

考古ガイダンス第48回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第48回 南九州の縄文晩期
  • ■ひときわ鮮やかな緑の勾玉■
  • 翡翠の首飾り青森県の三内丸山遺跡。今から約4,000年から5,000年前の巨大な竪穴住居跡や栗の大木を使った建物跡が発見されたのをはじめ,土器や石器・木製品などが大量に出土しています。その大半は色あせ,遙かな時の流れを感じざるをえませんが,その中で,ひときわ鮮やかなみどりー翡翠(ひすい)色ーの勾玉(まがたま)が目に飛び込んで来ます。その感動は,昔も今も変わりません。

    【写真 翡翠の首飾り(市ノ原遺跡出土のものを含む)】
  • 同じ石が東市来町の市ノ原(いちのはら)遺跡で出土したときも,ほのかな緑の輝きに感嘆の声が響きました。勾玉や大珠(たいしゅ)として縄文人の胸元を飾った翡翠は,その色と堅さで古くから多くの人々を魅了してきました。その美しさは,実は途方もない力によって生まれるのです。
  • 翡翠の原産地は新潟県の糸魚川(いといがわ)。その奥の山脈は地殻(ちかく)の変動によってその身を軋(きし)ませます。軋みは熱と圧力を産みます。圧力は多くの蛇紋岩(じゃもんがん)を産み,その一部が更なる圧力によって翡翠となるのです。
  • 科学分析の結果,市ノ原遺跡のそれは糸魚川の翡翠であることが判明しました。新潟のほか日高・飛騨などで産出する翡翠は日本各地の遺跡で見つかっています。縄文時代晩期,鹿児島県内の数か所に翡翠らしい石が出土している遺跡があります。加世田市の上加世田遺跡もそのひとつです。
  • ■まつり■
  • 加世田市役所の脇を流れる万之瀬川の右岸。その小高いところに上加世田遺跡があります。当初,その遺跡は個人によって調査されました。昭和43年,教職を定年退職したばかりの河口貞徳氏は加世田市の県道工事の周辺で土器片が出土したことを聞きました。現地で調査したところ,縄文晩期の遺跡であることが判明しました。周辺は宅地造成される計画であり,ことは緊急を要しました。途中,学生や教員の加勢もありましたがほとんどは河口氏1人による土との格闘でした。その結果,埋納土器(まいのうどき)や玉類・岩偶など祭祀跡(さいしあと)を思わせる貴重な発見につながりました。
  • ■埋められた土器■
  • 埋納土器-形を保ったまま埋められた土器のことです。鹿児島県外では,死んだ子供を土器の中に入れて埋葬した例や,竪穴住居内に埋め込んでいろりとして使用した例があります。
  • 本県でも,縄文時代のいくつかの時期に埋納土器が出現します。上野原遺跡でみられる早期後葉(約7,500年前)の埋納された壺には彩色があり,火にかけた痕跡も見られます。また,縄文時代晩期の上加世田遺跡の埋納土器の1つからは,磨石(すりいし)が1個入っていたものが発見されました。この類例は鶴田町の田間田(たまた)遺跡にもみられます。このように埋納された土器の目的は備蓄なのかまたは埋葬なのか,まだよくわかりません。
  • ■大量生産■
  • 埋納に使われた土器は,多くは丁寧な作りをしています。縁飾りの文様があって薄く堅く黒く磨かれた土器-黒色磨研土器と呼ばれるこの土器は九州一円に分布しています。その一方で遺跡に散らばる大量の土器のほとんどは,分厚く肌のざらざらした製品です。炭化物がこびり付き,そのほとんどが底の部分を欠いており,火にかけて煮炊きされたものと思われます。
  • 浅鉢と深鉢のように用途の違いで形の違う土器はそれ以前にも存在していましたが,このような作りの違いはこれまでにはありませんでした。普通,土器は粘土の紐を輪状に積み上げる「輪積み」という方法で作ります。これに対して,粗製土器の一部は,型作りの技法を用います。型に粘土を押しつけて,乾いたところで型から外すと出来上がりです。ろくろがまだ無いこの時代特有の「大量生産」の技術です。
  • ■編み布■
  • 組織痕土器そんな土器に特有の痕跡があります。作業工程で付いた跡です。型から土器を外しやすいように土器と型の間に布を敷きます。その痕跡から,これらの土器は組織痕土器(そしきこん)と呼ばれています。それをみると当時の布は織機(しょっき)で織ったものではなく,現代のすだれと同じような編み方をした編み布であったことがわかります。
  • 【図 組織痕土器(榎木原遺跡)】
  • 編み布(アンギン)を編む子供たち越後(えちご)地方で長く野良着(のらぎ)等の布として作られていた布とそっくりなことから,アンギンとも呼ばれています。糸は野生の麻-苧麻(ちょま)-の表皮からとれる繊維(せんい)をつないで撚(よ)ったものです。この繊維は16世紀に綿花が日本に伝わるまで多く使われました。

    【写真 編み布(アンギン)を編む子供たち】
  • 綿花にとって代わられたのは,糸を作るのに多くの工程(こうてい)を要するせいでしょう。くきから皮をはぎ,発酵(はっこう)させ水にさらすなど,繊維を得るのに幾日もかかります。ようやくできた繊維を一本一本手でつないで糸をつむぎます。それから布を編むのです。
  • それにしても,古来土器には時代ごとに様々な文様がありました。凝った意匠(いしょう)は見て感動する一方,どうしてここまでする必要があったのだろうかとも思います。多分,文様は単なる飾りではないのです。おそらくは当時の人々が生きていくのに何らかの意味で必要不可欠なものだったのでしょう。
  • 人々にとって,生き物の体と魂をいただくための「うつわ」はただの器であってはいけなかったのかもしれません。縄文時代が始まって1万年が過ぎ,その意識が大きく変わり始めています。
  • ■新しい時代■
  • 縄文時代晩期は,地域による時期差はあるものの,弥生時代開始までの約700年ほど続きます。その後の稲作を主体とする弥生文化は,多種多様な土器や石器の利用により,それ以前とは生活様式が一変します。その大きな変化の理由は何か,なぞを掘り起こす作業はまだまだ続きます。
  • 用語解説
  • 岩偶 岩石で作られた偶像。人形(ひとがた)が主だが動物の形もある。
    大珠 翡翠などの石を磨き穴をあけたもの。7センチ前後で長楕円形のものが多い。ひもを通して身を飾るものとして用いられたらしい。
    勾玉 主にC字形に湾曲し,片方の端に穴をあけた飾り玉。動物の牙に紐を通して首にかけたのが由来といわれる。土製・石製・ガラス製などある。
  • (文責)元田 順子

考古ガイダンス第47回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第47回 南島の特色ある墓制
  • ■広田遺跡の二層で異なる埋葬方法■
  • 薩南・トカラ・奄美諸島の埋葬遺跡現在,亡くなった人は,火葬(かそう)を行うことが法律で決められています。しかし,昔は地面に穴を掘って埋める,土葬(どそう)が一般的でした。

    この土葬の方法は,時代や地域によって大きな違いがありました。それは,集団によって死者に対する考え方が違うことによるようです。

    ここでは,弥生時代から古墳時代の埋葬(まいそう)について,種子島,トカラ列島そして奄美・沖縄諸島の島々の様相を例に見ていきたいと思います。

    熊毛郡南種子町(種子島)にある広田(ひろた)遺跡から,約200平方メートルの範囲内に,ほぼ1,700~1,800年前に埋葬された,150体以上の人骨が,上・中・下3層で検出されました。そのうち特に,下層から出土した古い時期の人骨と,上層から出土した新しい時期の人骨とでは,埋葬方法が異なっていました。
  • 【図 薩南・トカラ・奄美諸島の埋葬遺跡】
  • 熟年女性が多数を占めた下層出土の人骨は,女性の場合,例外なくひざと首とを縄でしっかりしばった屈葬(くっそう)が行われ,美しい模様が彫られた貝符(かいふ)や貝小玉(かいこだま)・貝輪(かいわ)などの装身具(そうしんぐ)が埋められていました。

    一方,男性人骨は脚をゆるくしばる屈肢葬(くっしそう)が行われていました。
    屈肢葬での埋葬人骨を検出した遺跡としては,中種子町(種子島)の鳥ノ峯(とりのみね)遺跡や西之表市(馬毛島)の椎ノ木(しいのき)遺跡があり,種子島を含む薩南諸島では,主に屈肢葬や屈葬が行われていたようです。
  • ■トカラ列島から南位では主に伸展葬で■
  • 屈肢葬(イメージ図)ところが,注目されるのは,同じ種子島で時期もほぼ同じ西之表市の田ノ脇(たのわき)遺跡では,両脚をまっすぐ伸ばした姿勢で埋葬する伸展葬(しんてんそう)が行われていたことです。
     伸展葬による埋葬人骨を検出した遺跡としては,鹿児島郡十島村(宝島)の大池(おおいけ)遺跡や大島郡笠利町(奄美大島)の宇宿(うしゅく)貝塚,そして大島郡伊仙町(徳之島)の面縄第一貝塚(おもなわだいいちかいづか)などがあります。
  • 【図 屈肢葬(イメージ図)】
  • 伸展葬(イメージ図)さらに南に位置する沖縄諸島でも,多くの遺跡で伸展葬による埋葬人骨が検出されており,トカラ列島から奄美・沖縄諸島にかけては主に伸展葬で埋葬されていたようです。
     このことからも,薩南諸島とそれより南の島々とでは,埋葬方法が異なることが明らかになりつつあります。
  • 【図 屈肢葬(イメージ図)】
  • 最初に述べた広田遺跡では,屈葬や屈肢葬が行われた下層人骨に対して,より新しい時期の上層から出土した人骨では,再葬(さいそう)が行われていました。再葬とは,遺骸を仮葬した上で,肉や皮が消滅したあと骨をまとめ,改めて別の1つの墓に集めて,集団で埋葬する方法です。

    この方法で埋葬された人骨は,奄美諸島では検出されていませんが,沖縄諸島では数遺跡で見つかっており,奄美諸島での検出が期待されています。
    南西諸島では,亡くなった人を聖地にそのまま置き,数年後に家族が骨を洗い,改めて埋葬する儀式を最近まで行っており,民俗例でも代表的な埋葬方法として頻繁に紹介されています。
    このような儀式の始まりが,弥生時代から古墳時代の時期にまでさかのぼる可能性があることは,大変興味深いことです。

    ところで,広田遺跡における下層人骨と上層人骨との違いは,副葬品にも見られます。
    上層人骨に副葬された貝符は,ひもを通す穴がないことから,日常の生活で使われたのではなく,副葬(ふくそう)するためのもののようです。 
    弥生時代に相当する時期の沖縄では,副葬品にシャコガイなどの自然海産物が多いといわれています。この特徴について池田榮史(いけだよしふみ)琉球大学教授は,海浜への依存度が高いことや,死や死者に対する呪力(じゅりょく)を期待した魔除け(まよけ)的な性格が極めて強いことを指摘しています。
  • ■貝符や貝小玉が出土■
  • このことから副葬品として作られた貝符についても精巧な製品ではありますが,「呪力への期待」や「魔除け的な性格」を示す副葬品として考えることが可能であり,注目できます。
    また,下層人骨につけられた貝輪は主にオオツタノハという貝で作られていました。それに対して,上層人骨では主にゴホウラ貝で製作されていたのです。
    ゴホウラ貝製の貝輪は,弥生時代には北部九州の権力者たちに,呪力の強いものとして大変好まれたようです。このゴホウラ貝製の腕輪を上層人骨の多くが身につけていることは,生前だけでなく,死者に対しても呪力を期待したものとして注目できるでしょう。

    今まで見てきたように,地域や時代によって,埋葬方法に違いがあります。このことは,その時,その地域に生きる人々の,死者に対する想いに違いがあることを明らかにしているようです。
    つまり,死者の魂の「復活」を恐れるのか,それとも死者の魂を敬い「再生」を祈るのかといった死者に対する気持ちの動きは,現在に生きる私たち個人に,そしてまた,社会にも通じる気持ちであるのだと遺跡は訴えかけているようです。
  • 用語解説
  • 貝符
    (かいふ)
    イモガイなどを長方形あるいは蝶(ちょう)の形にみがいて整えたのち,その表面に模様を彫り込んで作ったもの。貝札(かいさつ)ともいう。
    貝小玉
    (かいこだま)
    ツノガイやノシガイなどを素材としてビーズのようにつないで首飾り(ネックレス)や腕飾りにした。特に,広田遺跡からは多量に出土している。
    貝輪
    (かいわ)
    オオツタノハ,ゴホウラ,イモガイなど南海で産出する貝を素材として作った腕輪。九州では弥生時代以降,権力者が身につけていた。
    副葬
    (ふくそう)
    死者が日頃身につけていたものや,その地位を明らかにするために持っていたもの,魔除けや邪をはらうものなどを,死体に添えて埋めること。
    南西諸島
    (なんせいしょとう)
    鹿児島県種子島から沖縄県波照間島まで南に連なる島々の総称。さらに,種子島・屋久島などの薩南諸島,口之島から宝島までのトカラ列島,奄美大島から与論島までの奄美諸島,沖縄本島とその周辺の島々からなる沖縄諸島,そして宮古島や石垣島とその周辺の島々からなる先島諸島に分けられる。
  • (文責)八木澤 一郎

第53回企画展 弥生もスゴイ!かごしま

開催期間:平成30年12月7日(金)~平成31年3月21日(木・祝)

 鹿児島は「縄文王国」と言われるほど,全国的に見ても縄文時代の遺跡が数多くあり,南の縄文文化が花開いていたことがよく知られています。続く弥生時代については,これまで発掘調査例が少なく,遺跡もそれほど多くは見つかっていませんでした。
 ところが,近年の発掘調査により,約2,000年前の倭国(日本)が百余のクニに分かれていた時代に,鹿児島にも重要な遺跡が数多く発見され,山ノ口式土器を中心とする鹿児島独自の豊かな弥生文化が存在していた「スゴイかごしま」であることが明らかになってきました。
 今回の企画展では当園初となる弥生時代の鹿児島に着目し,弥生文化を代表する九州北部の資料と併せて展示することにしました。他の地方とは異なる「弥生時代のかごしま」の特徴やその独自性に迫ります。

各コーナーの見どころ紹介

第1章 弥生時代のあけぼの
第2章 弥生文化のひろがり
第3章 弥生時代から古墳時代へ

企画展講演会

平成31年1月12日(土)13:30~15:00
  内 容 :「弥生時代のかごしま」
  講 師 :国立歴史民俗博物館考古研究
        教授  藤尾 慎一郎 氏
  定 員 : 80人程度(※要事前申し込み)
  場 所 : 縄文の森展示館多目的ルーム
  資料代 : 100円
   ※ 講演会終了後,希望者を対象に企画展示室で講師によるギャラリートークを行います。(別途展示館利用料金が必要)

考古ガイダンス第46回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第46回 弥生研究の中心・高橋貝塚
  • ■弥生日記■
  • よしのぶ  -僕の名前はよしのぶといいます。今,小学校最後の夏休みを利用して,福岡から金峰町のおじいちゃんの家に遊びに来ています。-

     『8月○日晴れ
    きょうは朝早く,おじいちゃんと一緒に近くの玉手(たまて)神社まで散歩に出かけました。……』
    おじいさん
  • ■高橋貝塚で■
  • おじいちゃん 「何をお願いしたんだい?」
    よしのぶ 「うん。夏休みの宿題が無事に終わりますようにって。」
    おじいちゃん 「鹿児島での思い出も日記に書いてみたらどうかな。」
    よしのぶ 「うん,そうするよ。ところでおじいちゃん,どうしてこの神社の地面には貝殻が落ちているのかな?」
    おじいちゃん 「貝塚(かいづか)だからだよ。」
    よしのぶ 「貝塚?」
    おじいちゃん 「そう。ここは高橋貝塚といってな。今から40年くらい前に発掘調査があって,縄文時代の終わりごろから弥生時代の人たちが食べた貝の殻が捨てられた場所らしいよ。」
    よしのぶ 「へぇー,そうなんだ。僕の住んでいる福岡にも弥生時代の遺跡があるんだって聞いたことがあるけど,何か関係があるのかな?」
    おじいちゃん 「そういえば今,町内で発掘調査をやってるはずだから,一緒に行ってみよう!」
  • ■貝塚は宝箱■
  • 調査員 「貝塚は全国で約3,000か所あるといわれているんです。高橋貝塚は吹上浜に近い場所にありますから,昔から貝がたくさん取れたんだと思います。」
    よしのぶ 「貝以外のものは食べなかったのかな?」
    調査員 「貝が主食だったのではなく,おそらく古代人は動物の肉や木の実,米や畑作物などの不足を補うため貝を食べていたのでしょう。貝はこれらの食料に比べて栄養価(カロリーなど)が低く,たくさん取って食べる必要があるからなんです。」
    おじいちゃん 「貝塚って,昔の人々のゴミ捨て場なんですよね。」
    調査員
    調査員
    「発掘調査では,現在のゴミ捨て場とはちょっと違う見方をするんですよ。日本では昔から火山活動が活発に繰り返されてきたため,土壌(どじょう)は酸性が強く,動物や魚の骨などは長い年月の間に土にかえってしまいます。ところが貝塚では,大量の貝殻で土壌がアルカリ性に保たれ,一般の遺跡では発見されにくいものが腐らずに残されています。考古学にとっては,まさに宝箱みたいな存在なんです。」 よしのぶ
    よしのぶ 「おもしろいなぁ。中には何が入っているんだろう?」
    調査員 「それでは,宝箱のふたをあけてみることにしましょう。」
  • ■貝の道■
  • 調査員 「高橋貝塚で発見された貝のなかに,ゴボウラ・オオツタノハというものがあります。これらの貝は奄美より南の,サンゴ礁の海でしか取れないものです。」
    おじいちゃん 「…ということは,ここまで運んできた人たちがいるんですね。」
    調査員 「そうなんです。もうひとつ興味深いのは,これらの貝で貝輪(かいわ)がつくられていることです。未製品(制作途中のもの)も,たくさん見つかっています。」
    よしのぶ 「貝輪って何ですか?」
    調査員 「今のブレスレット(腕輪)のようなものです。弥生時代になると,北部九州を中心に貝輪を身につける習慣がもてはやされ,なかでもゴホウラ製の貝輪が大切にされたようなんです。」
    よしのぶ 「わぁ。福岡ともつながりがあったんですね。」
    調査員 「はい。例えば飯塚市の立岩(たていわ)遺跡の甕棺(かめかん)というお墓には,貝輪を右腕に14個もはめた男性がほうむられていました。北海道でも貝輪が発見されているんですよ。」
    よしのぶ 「飛行機やフェリーのない時代に,すいぶん遠くまで運ばれたんですね。」
    調査員 「弥生人は丸木舟(まるきぶね)という舟で海を渡っていたと思われます。高橋貝塚の貝製品は,南海でとれた貝が舟によって運ばれ,加工された後,北部九州などへもたらされていたことを教えてくれました。考古学ではこういったルートのことを『貝の道』と呼んで研究しています。」
  • ■米作りのあかし■
  • 調査員 「弥生時代の特徴のひとつに稲作があります。中国大陸や朝鮮半島から日本に伝わったと考えられています。昭和26年に福岡県の板付(いたづけ)遺跡から炭化した米や籾痕土器(もみこんどき)が出土したことによって,稲作文化の始まりが日本で初めて証明されたんです。」
    よしのぶ 「籾痕土器って何ですか?」
    調査員 「籾のあとがついた土器のことです。弥生人が土器づくりをしている時,近くにあった籾が偶然くっついてしまったんでしょうね。籾痕から米があったことがわかりますし,稲の種類を知るうえでも重要な手がかりを提供してくれます。」
    おじいちゃん 「土器を細かく観察することが,大きな発見につながるんですね。」
    調査員 「この発見以来,『弥生文化は北部九州から始まった』と考えられるようになりましたそして高橋貝塚でも板付遺跡とそっくりの土器が大量に発見され,その中には籾痕土器も含まれていたのです。」
    おじいちゃん 「鹿児島でも早くから米作りが行われていた可能性があるんですね。」
    調査員 「高橋貝塚では水田の跡こそ見つかっていませんが,石庖丁(いしぼうしょう)や農作業で使う道具(クワやスキなど)を作るための抉り入り石斧(えぐりいりせきふ)・ノミ形石斧(のみがたせきふ)などの石器が発見されています。さらに,米を貯蔵(ちょぞう)するための甑(こしき)という土器も出土していますから,米作りの証拠はほとんどセットでそろっています。」
  • ■水田跡の発見は?■
  • よしのぶ 「水田跡が見つかった遺跡はないんですか?」
    調査員 「鹿児島大学構内(かごしまだいがくこうない)遺跡で,弥生時代中期の水田跡が発見されています。水路に利用された溝や稲の切り株の跡,人の足跡らしいものも見つかっています。遺跡が低湿地(水気の多い低い土地)にあるため,台地の遺跡では発見されにくいものが水にパックされた状態で見つかっています。貝塚が宝箱なら,こちらは天然の冷蔵庫といった具合でしょうか。」
    よしのぶ 「遺跡のある場所によって,いろいろ違いがあるんですね。」
    調査員 「今後,低湿地の発掘調査が行われた場合,水田跡が発見されるかもしれません。しかし,今までに発掘された遺跡で,高橋貝塚と同じ時期のものは決して多くはないんです。そういった意味から,高橋貝塚は鹿児島県の弥生時代研究の中心となっています。」
  • ■米作りが始まって何年?■
  • おじいさん
    おじいちゃん 「きょうは,いい勉強になったね。」
    よしのぶ 「うん。今から2,000年以上前の時代には,米作りが始まっていたんだね。…。おじいちゃん,なんだか僕,おなかすいちゃった。」
    おじいちゃん 「それじゃ,晩ご飯にしよう。米作りから始まって数えて何回目の収穫になるのかな。さあ,とれたての早期米で炊いたご飯だよ。」
    よしのぶ 「いただきまーす!」
    …今日のお米の味は,なんだか弥生の味のように感じられました。
    よしのぶ
  • ◆籾痕土器の出土した遺跡
    高橋貝塚(金峰町)  下原遺跡(金峰町)  市ノ原遺跡(東市来町)   魚見ケ原遺跡(鹿児島市など)
  • ◆高橋貝塚出土の自然遺物 (発掘調査による)
    ○貝類  ナガガキ・オシジミ・ハマグリ・マシジミ・タケノカワニナ・ウミニナ・マルタニシ
     ギンタカハマ・ウスカワマイマイ・アズキガイ・ゴホウラ・オオツタノハなど43種類
    ○魚類  サメ・サバ・スズキ・エイ・マダイ
    ○ほ乳類  イノシシ・シカ・イヌタヌキ・アナグマ・テン・ノウサギ・サル・クジラ
    ○ハ虫類  ウミガメ
  • 用語解説
  • 石庖丁 長方形や半月形をした扁平(へんぺい)な石器で,長い辺の片方だけ刃がつくられています。稲などの穂をつみとるための道具です。
    抉り入り石斧 長方形の柱状の形をした石器で,柄(え)を固定するためのえぐり(くぼみ)を持つ石製の斧(おの)です。木材の加工に使われました。
    ノミ形石斧 大工道具の鉄製のノミに似ていることからつけられた名前で,木材を平らにするために使われた石斧です。別名石ノミとも呼ばれます。
    甕棺 大型の甕形土器(かめがたどき)の棺(ひつぎ)のことです。
  • (文責)三垣 恵一

縄文の森から 平成30年11・12月

平成30年11月13日(水)

11月~12月のイベント情報!!

※ 上のチラシをクリックすると,上のイベント情報のチラシと申込書がダウンロードできます。


平成30年11月8日(水)

上野原縄文の森入園者200万人突破!

 平成30年10月19日(金),平成14年10月5日に開園してからの入園者が200万人を突破いたしました。
 200万人突破を記念して,くす玉割りや上野原遺跡から出土した土器レプリカを記念品として贈呈するなどの記念セレモニーを行い,心地よい秋晴れの中,節目を祝うことができました。
 記念すべき200万人目は遠足で訪れた霧島市立大田小学校の6年 堀之内優志君でしたが,200万人目の前後者と一緒にセレモニーにも参加していただきました。
 次回の記念セレモニーに向けて今後とも,展示や縄文体験・イベント等で県内外のお客様が何度も来園していただけるよう職員一同努めてまいります。皆様のご来園を心よりお待ちしております。

考古ガイダンス第45回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第45回 橋牟礼川遺跡
  • ■火山灰に埋もれたムラ■
  • 開聞岳大宰府が報告してきた。去る3月4日の夜,薩摩国従四位上開聞の神が鎮座する山の頂に火があり,真っ赤に焼けた。雷が轟き夜通し振動した。噴火の音や地響きは,100里以上離れたところでも聞こえ,社の近くの人々は恐怖のあまりふるえて,肝をつぶした。明け方になっても天気は陰うつで,昼間も夜のように暗かった。噴煙は天をおおい,灰や砂が雨のように降った。色は墨のように真っ黒で,一日中止むことはなかった。
    【写真 開聞岳】
  • 噴煙は天をおおい,灰や砂が雨のように降った。色は墨のように真っ黒で,一日中止むことはなかった。その砂粒が降り積もった厚さは,あるところでは5寸,またあるところでは1寸あまりであった。夕暮れ時には,砂粒に変わって雨が降ってきた。この雨にぬれた作物は皆枯れてしまい,川の水は砂粒を含んでさらに濁った。無数の魚や亀が死んだ。人々の中にはその死んだ魚を食べたものがおり,ある者は死に,ある者は病気になった。
  • ■建物が倒れる様子■
  • 建物が倒れる様子1
    ①貞観16年3月4日,開聞岳噴火。火山礫が降下し,建物周辺に堆積する。
    木の埋没1
    根の近くの盛り上がりにそって火山礫が堆積する。
    建物が倒れる様子2
    ②火山礫の後,細粒の火山灰が降下,建物の屋根及び周辺に堆積する。
    木の埋没2
    細粒の火山灰が木に堆積する。
    建物が倒れる様子3
    ③火山灰降下途中より,雨も降り出す。堆積した火山灰の重みで建物が倒れる。
    木の埋没3
    木は立ち枯れたまま,火山灰の中に埋没していく。
    建物が倒れる様子4
    ④建物崩壊後,細粒の火山灰のみが水と一緒に建物内部に侵入する。木材は腐食し,空洞化する。
    木の埋没4
    木は腐食し,中に細粒の火山灰が侵入する。
    これは今から約1,100年前,貞観16年3月4日(西暦874年3月25日)開聞岳が大噴火した時の様子で,『日本三大実録』という古文書の中に記されている内容です。環境の変化や人々の様子など詳しく記録されており,火山災害の恐ろしさが伺えます。

    指宿市に国指定史跡である橋牟礼川遺跡があります。この遺跡を初めて発掘した京都帝国大学の浜田耕作博士は,「先史時代のポンペイ」と呼んでいます。

    この遺跡で1988年の発掘調査時に,火山灰による倒壊家屋が発見されました。発掘調査によって明らかになった災害の様子は図の通りで,先ほどの『日本三代実録』の史実と一致します。当時の様子を文字と地中の両面から知ることができる貴重な資料です。

    このほかにも災害で埋まった村の跡が発見されています。畠跡では畝(うね)跡と道跡,杭列が見つかっています。さらに,古墳時代から流れていた川が,噴火の際に起きた土石流で埋まっていました。

    これは先ほどの『日本三代実録』の中の「川の水が-」に当てはまります。また,この遺跡からは役所があったのではないかと考えられる墨書土器,硯(すずり),刀子(とうす),青銅製の丸鞆(まるとも)などの遺物も多数発見されています。

    さて,災害が起こったその後はどうなったのでしょうか。このことも『日本三代実録』の中に次のように記されています。
  • 占ってみたところ「神が封戸(ふこ=神社の維持財源として税を納める戸)を求めている。神社が穢(けが)れている。よってこのようなたたりをなした」という結果が出た。そこで天皇は,勅(命令)を発し,封戸,20戸を開聞神に奉ることにした。

    政府はこの災害を重く受け止め,対策に苦慮したようです。
  • 火山灰の重みで倒壊した建物跡また,この遺跡では,古墳時代から奈良時代の貝塚が発見されています。しかし,この災害後の貝塚は,全く見つかっていません。住民たちは,復興のめどが立たず,この地を離れたのでしょうか。それとも魚や貝が全くとれなくなってしまったのでしょうか。その真相はまだ明らかになっていません。

    【写真 火山灰の重みで倒壊した建物跡(白線方形の部分)】
  • このように約1,100年前の開聞岳の大噴火は周辺の住民の家屋や田畑を一瞬のうちに呑みこみました。ある者は家族や仲間を失ったかもしれません。人々は,その後何十年もの長い間苦しい生活を強いられたに違いありません。
  • 大正時代には,桜島の大噴火がありました。かなりの被害を受けたことは記憶とともに記録として残っています。数年前,長崎県の雲仙普賢岳も大爆発を起こしました。火山弾が降り注ぎ,火砕流が流れ出し,火山灰が降り積もりました。さらにそれが雨によって土石流となり,人々の生活を一瞬にして呑み込みました。この時の様子は,新聞やテレビで報道され,記憶に新しいです。最近も北海道の洞爺湖畔にある有珠山が火山活動を活発化し,周辺の住民は避難活動を余儀なくされています。このように火山災害は,火山大国日本において,大昔から避けては通れないものです。その中で過去にいつ,どのような被害があり,どのように対処し復興したかを知ることは,これからの災害対策の1つとして重要な手掛かりとなるに違いありません。
  • ■火山災害の多い鹿児島■
  • 開聞岳付近の地層福山町の藤兵衛坂段遺跡では,文明ボラに覆われた畠跡が広い範囲で発見されています。この文明ボラについては,『三国名勝図会』に1470年代の桜島の噴火活動の様子として記されています。福山町・大隅町などに多く見られ,30~50センチメートル積もっており,かなりの被害があったと予想されます。文明の大噴火は今まで17回あった桜島の大噴火の1つです。
  • 【写真 開聞岳付近の地層】
  • また,全国でも有名なアカホヤ,シラスも鹿児島県内の火山噴火によるもので,それぞれ鬼界カルデラ(硫黄島南沖),姶良カルデラ(鹿児島湾奥)を起源としています。
  • シラスに関しては,北は北海道南部,東は朝鮮半島に至るまで広範囲にわたって確認されており,地球規模の爆発だったことが分かっています。このほかにも池田カルデラ(池田湖),阿多カルデラ(鹿児島湾口)など鹿児島では大昔から多くの火山活動があったのです。
  • ■縄文土器と弥生土器■
  • 弥生土器1916年。その頃,縄文土器(当時アイヌ式土器と呼ばれていた)と弥生土器の違いは,地域の違い,つまり民俗の文化の違いという考え方が有力でした。しかし,同年夏,当時の考古学会を揺るがす歴史的な発見があったのです。
    旧制志布志中学校に通う西牟田少年が,指宿に帰省していた時のことでした。少年が近所を歩いていると,あるところで2種類の土器を見つけました。これは何の土器だろうと思った少年は,その土器を学校に持ち帰り,瀬之口伝九郎先生に見せたところ1つは縄文土器(指宿式土器),1つは弥生土器(山ノ口式土器)であることがわかりました。
  • 【写真 弥生土器の破片】
  • 縄文土器それから1年後,喜田貞吉博士が同校を訪れました。博士は,当時『土器の違いは民俗の文化の違い』という考えをもっていた有名な考古学者です。2つの土器を見た喜田博士は,同じ場所にあるのは不思議だと思い,後日現地を踏査してみました。さらに地元の学者にも調査を依頼しました。このことは喜田博士の『九州旅行談』の中に記されています。調査の結果,遺跡の存在が確認され,翌年1月,考古学雑誌第8巻第7号で紹介されました。世間はその報に大いに沸きました。
  • 【写真 縄文土器の破片】
  • 1918年1月。喜田博士からその話を聞いた京都帝国大学の浜田耕作博士は,宮崎に出張の際,指宿まで足を延ばし,半日だけでしたが発掘調査を行いました。浜田博士は,『土器の違いは時代の違い』という考えをもっていた考古学者です。博士は翌年の1919年4月にも,再び調査を行っています。
  • この発掘調査で驚くべき事実が明らかになりました。それは,1つの火山灰層をはさんで,上に弥生土器,下に縄文土器が発見されたのです。これにより2つの土器の違いは民族の違いではなく,時代の違いであることが分かったのです。もちろん,日本で最初のことであり,この発見により日本の歴史は縄文から弥生へと移り変わっていくという説が証明され,現在の考古学の基盤となっています。

    大正13年(1924年),世間に大きな衝撃を与え,学術的にも重要な役割を果たした橋牟礼川遺跡は国の指定を受け,『国指定遺跡』として保存・整備・活用され今日に至っています。
  • 用語解説
  • ポンペイ イタリアにある町。ヴェスヴィオ火山の噴火により埋没した。
    墨書土器 墨で文字や記号の書かれた土器。
    刀子 ナイフ・小刀。武器ではなく日常利器としての機能が強い。
    丸鞆 平安時代の役人や貴族の冠位を表すベルトの装飾品。
    貝塚 人が貝殻を廃棄した場所。
  • (文責)西村 喜一