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鹿児島県上野原縄文の森

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カテゴリー: 考古ガイダンス

考古ガイダンス第19回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第19回 貝殻文土器の時代
  • ■桜島と考古学■
  • 錦江湾に悠然とそびえる桜島は鹿児島を代表する景観であり,象徴的存在でもあります。その桜島は,約2万5,000年前に大噴火した姶良カルデラの南東の海中に誕生し,17回の大規模な噴火のあったことが火山研究者によって確認されています。中でも4回目の噴火は今から約1万1,500年前とされ,この噴火により現在の桜島の姿が形作られたと考えられています。
  • この噴火の記録は各地で火山灰の堆積層として残され,遺跡や崖面で観察することができます。火山研究者や考古学研究者の間では薩摩火山灰あるいはSz‐SもしくはP14と呼ばれ,遺物や遺構の時代判断の重要な目安とされています。
    今回取り上げる土器はこの薩摩火山灰層に最も近く,しかもその直上で発見されることが多い「岩本式土器(岩本タイプ)」です。
  • ■貝殻文の時代■
  • 岩本式土器ところで縄文土器とは縄でつけた文様を持つ土器のことで,縄文時代の土器の総称です。しかし縄文時代人は,縄以外にもヘラや貝殻で文様を描いたり,粘土紐や文様を刻んだ棒状の施文具で巧みに土器の表面を飾っています。
    縄文時代早期の南九州の人々は,貝殻を利用することが一般的でした。特にサルボウやアカニシの口の部分を用い,押したり引いたりの動作を繰り返し,波形の刻み目を付けたり斜めに筋を引っぱったりと,シンプルではありますが芸術感あふれる文様を残しています。
    これらの土器を総称して貝殻文土器と呼んでいます。特に円筒形に仕上げることの多い岩本式土器・前平(まえびら)式土器・吉田式土器・石坂式土器などは,円筒形貝殻文土器と呼ばれています。
  • 【図 岩本式土器(指宿市・岩本遺跡出土)】
  • ■上山路山(かみやまじやま)遺跡■ 
  • 縄文早期の遺跡岩本式土器が大量に出土して注目されている遺跡に,伊集院町の上山路山遺跡があります。1997年度に南九州西回り自動車道の建設に先立って調査を行ったこの遺跡は,台地の縁辺から谷へ下る斜面に遺跡が作られていました。

    遺跡の中心部である集落跡は,調査範囲外の台地中央部と推定されています。谷への急斜面で大量の土器が発見されたことにより,ここは土器捨て場であった可能性が高いとみられています。縄文時代の遺跡は,上山路山遺跡と同様に台地の縁辺部に形成されることが多いといえます。ここ上野原遺跡もその一つであり,青森県の三内丸山遺跡も青森湾を見下ろせる場所に遺跡が残されています。
  • 【写真 縄文早期の遺跡(伊集院町・上山路山遺跡)】
  • なぜ縄文時代の遺跡の多くはこのような台地に作られたのでしょうか。おそらく台地の裾には川が流れ広い湿地が広がり,遠くには海が眺望できたとことでしょう。このような台地の麓には,水や食料を求めて動物が集まり,川や海には豊かな魚や貝があふれていたと思われます。
  • ところで,上山路山遺跡の谷筋には道跡らしき遺構も発見されています。頂上部分に当たるわずかな平坦部を調査していたときに検出されたもので,おそらく台地上の生活の場と谷を行き来したものと思われます。またY字状の三差路らしき部分もあわせて発見されました。
  • 道跡遺構は,黄褐色の薩摩火山灰層の上に黒っぽい土が入る溝状の窪みとして残されていました。また先に記した土器捨て場の可能性が高いことは,道跡には土器を捨てておらず,使用しない反対側の急勾配の斜面から大量に土器が発見されていることからも類推することができます。
    仮にこのように推定することが可能であれば,生活の場と捨て場の使い分けが既にあったこととなり,生活環境に対する空間認識が存在したということがいえます。
  • ■岩本式土器の起源■
  • 岩本式土器の出土状況岩本式土器の起源については,少しずつ明らかになりつつあります。

    薩摩火山灰層の下から発見される土器の多くは,隆起線文土器・隆帯文土器と呼ばれる縄文時代初源期の土器で,岩本式土器とは製作方法や土器の形・文様が大きく異なっています。そのため直接的な繋がりを見ることはできません。したがって,薩摩火山灰層を介して文化的・時間的断絶が存在することになります。
    しかし,最近指宿市の岩本遺跡や水迫遺跡,宮崎県の堂地西遺跡等の出土品の中に,その繋がりを示す答えが秘められている可能性が指摘されつつあります。また岩本遺跡・上山路山遺跡等では,岩本式土器に赤色顔料を塗った土器が出土しており,これまで日本最古の例であると考えられていました。
  • 【写真 岩本式土器の出土状況(田代町・ホケノ頭遺跡)】
  • しかし,最近になり薩摩火山灰層よりも古い隆帯文土器や,末吉町の桐木遺跡出土の隆起線文土器にも赤色を塗彩していることがわかってきました。このことは,薩摩火山灰層を介して時間的隔絶は明らかに存在してはいるものの,赤く塗られた土器を使う意識や慣習に共通した側面があったことを指摘できるでしょう。
  • 土器を赤く塗るという文化・伝統の面からの繋がりが考えられるのです。今後の新たな調査・研究の進展によって,また異なった展開も期待されるところです。
  • 「君よ知るや南の国」
    今回は上野原遺跡より少し古い時代の話でした。南国の豊富な自然の幸を利用しながら,南九州の人々はすばらしい文化を作りあげたのです。
  • 用語解説
  • 岩本式土器(岩本タイプ) 指宿市岩本遺跡で見つかった円筒形貝殻文土器の一種。
    器形は円筒形(バケツ形)で,口唇部に波型の刻みが入る。
    内外面は貝殻を利用して,丁寧になでてある。
  • (文責)寺原 徹

考古ガイダンス第18回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第18回 朝鮮半島と西北九州と活発に交流
  • ■埋蔵文化財の宝庫・屋久島■
  • 曽畑式土器が出土した主な遺跡と想定される曽畑式土器文化圏北東側の種子島から望むその姿は「洋上アルプス」の名にふさわしい威容を誇っています。まるで海洋を旅する人々のための道標のようです。

    「世界自然遺産」の島,屋久島。九州一の標高1,935メートルの宮之浦岳を筆頭に,1,000メートルを越える山々が30座以上も連なっています。

    樹齢1,000年を越える「屋久杉」をはじめ,「ヤクザル」「ヤクシカ」など独特の動植物が多くの人々を魅了してやまない,類まれな自然環境のこの島は,埋蔵文化財の宝庫でもあります。

    現在明らかになっている遺跡数は65か所。旧石器時代の遺跡は確認されていませんが,縄文時代の前期(6,000年~5,000年前)から晩期(3,000年~2,300年前),弥生時代~中世までと幅広くあります。

    今回はこの中から上屋久町北端に位置する「一湊松山(いっそうまつやま)遺跡」を紹介します。
  • 【地図 曽畑式土器が出土した主な遺跡と想定される曽畑式土器文化圏】
  • この遺跡の所在する一湊(いっそう)集落は,一湊川によって開けた沖積低地及び砂丘地にあります。矢筈(やはず)岬と一湊湾が形成する天然の良港に恵まれ,カツオやサバ漁の基地として知られる漁業の町で,背後には「布引(ぬのび)きの滝」が流れるなど,生活に必要な水を容易に求められる立地条件の整った場所です。
  • 昭和32年・55年・平成4年~7年にかけての発掘調査において,縄文時代前期・後期(約5,000年~4,000年前)・晩期,弥生時代後期(紀元前1~3世紀)の遺構・遺物が発見されています。中でも,九州における縄文時代前期を代表する曽畑式土器が,大量に出土した特徴ある遺跡として注目されています。
  • この土器は,屋久島から遠く離れた熊本県宇土市にある曽畑貝塚が標式遺跡で,一般的に底の丸い深鉢が多く,壷形,椀形等もあります。外側のほぼ全面と口縁部の内側の一部に細いへら状,もしくは棒状の道具を使って文様を描いています。刺突文(しとつもん)・鋸歯文(きょしもん)・平行線文・四角・三角組み合わせ文・綾杉文など,多彩な文様が連続的に組み合わされ,幾何学的文様になっています。
  • ■曽畑式土器■
  • 曽畑式土器
    曽畑式土器
    (一湊松山遺跡出土)
    幾何学的文様を見せる曽畑式土器の様々な施文
    幾何学的文様を見せる曽畑式土器の
    様々な施文(一湊松山遺跡出土)
    1 刺突文

    2 平行線文

    3 四角・三角組合せ文

    4 平行線文

  • 曽畑式土器が発見されている地域は,朝鮮半島南部の釜山市にある東三洞(とうさんどう)貝塚から九州全域,さらに,沖縄県読谷(よみたん)村の渡具知東原(とぐちあがりばる)遺跡,同県北谷(ちゃたん)町の伊礼原(いれいばる)C遺跡など,南北950キロメートルにも及ぶ広大な範囲に及びます。そのため,この土器の起源及び伝播ルート解明は,長年,考古学での研究の焦点となってきました。
  • 一般的な説としては,縄文時代の前期に朝鮮半島の櫛目(くしめ)の文様を持つ土器を使用する人々が海を渡り西北九州に上陸。当時同地で使用されていた土器に影響を与え,その結果曽畑式土器が成立したとされています。朝鮮半島と西北九州縄文人との活発な交流関係を想定し,朝鮮半島南部→西北九州→中九州→南九州→沖縄へ伝播したと考えられています。
  • 確かに一湊松山遺跡で発見された曽畑式土器は,屋久島には無い滑石(かっせき)を混ぜて作られた搬入品が出土しています。さらに,その形状を模しながらも,屋久島に特徴的な長石と金雲母が混ざった土で焼き上げられた独自の地元産の土器も,上下の地層から発見されています。このことは,島外産の土器と地元産の土器が時期をずらして交互に使用されていたことを意味し,曽畑式土器の南下説を考える上で注目されています。
  • ところが,これらの土器が使用されていた時間差を発見された状況から検討してみると,島外産と地元産が入れ替わるサイクルが以外に早いようで,従来の伝播(南下)説だけでは説明しがたい状況が見えてきます。
    この謎を解き明かす事実として,近年,金峰町阿多貝塚,大口市日勝山遺跡,横川町星塚遺跡,頴娃町折尾遺跡から,古い時期の曽畑式土器が発見されたことは重要な意味をもちます。それは西北九州から南下した曽畑式土器とその文化が,中心的な拠点を九州の東シナ海沿岸に拡散し,西南九州が大きなまとまりとして曽畑式土器文化圏を形成していき,その中で一湊松山遺跡に生活していた人々が九州本土と南西諸島を結ぶセンター的役割を担っていたとも考えられるからです。
  • 縄文人の海上交流
  • 栫ノ原遺跡出土 丸ノミ形石斧ところで縄文人の海上交流はいつ頃から始まっていたのでしょうか。それは縄文時代の始まりと言われる草創期に早くも確認されています。
  • 【写真 栫ノ原遺跡出土 丸ノミ形石斧】
  • 一湊松山遺跡遠景「丸ノミ形石斧(せきふ)」。草創期の遺跡として県内で著名な加世田市栫ノ原遺跡,鹿児島市掃除山遺跡,志布志町東黒土田遺跡,さらに縄文時代早期後半(約7,000年前)に相当する鹿屋市前畑遺跡,種子島の西之表市立山遺跡等で出土しているこの石斧は,丸木舟の製作工具と考えられています。
  • 【写真 一湊松山遺跡遠景】
  • これらの地域以外でも奄美諸島,沖縄諸島のいわゆる黒潮文化圏にも分布しており,丸木舟も全国で約40遺跡から100隻を越え発見されています。これまで九州で発見されている最古の丸木舟は,長崎県多良見(たらみ)町伊木力(いきりき)遺跡から発見された縄文時代前期のものとされます。曽畑式土器の広範な分布状況から見て,この時代,丸木舟を自在に操る海洋性に富んだ人々の移動があったことは,容易に想像できます。
  • (文責)松尾 勉・山崎 克之

考古ガイダンス第17回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第17回 海や山へ広がる縄文人の活動
  • ■4,000年前の人々とは■
  • 山ノ中遺跡全景今から約4,000年前の縄文時代後期の人々とはいったいどんな人々だったのでしょうか。実は,現在の私たちととても深い関係にある人たちなのです。 

    4,000年前というと想像もつかないほど昔のことのような気がしますが,自分自身の先祖をさかのぼっていくと,3世代で約100年経つことになります。同じように考えていくと,30世代で1,000年,4,000年前だと現在の私たちのおよそ『120世代前の祖先の生きた時代』と考えることができます。
  • 【写真 山ノ中遺跡全景】
  • それでは,120世代前つまり,縄文時代後期の人びとの生活を山ノ中遺跡(鹿児島市西別府町)を中心にのぞいてみることにしましょう。
  • ■幅広い交流範囲■
  • 各地域の3,800年前頃の土器山ノ中遺跡からは,縄文時代後期前半(約3,800年前)の指宿式土器を中心とする土器が大量に出土しました。それ以外にも,開聞岳周辺で作られたと推定される土器の表面が紫色を帯びた土器や,出水地方で作られたと推定される粘土に滑石を含むもの,志布志湾沿岸でよく見られる貝殻を使った口縁部を廻る刺突文が施された土器等も出土しています。
  • 【イラスト 各地域の3,800年前頃の土器:右から堀之内Ⅱ式土器・松ノ木式土器・指宿式土器】
  • さらに,南九州以外の地域で作られたと考えられる「磨消縄文土器」(すりけしじょうもんどき)も出土しています。磨消縄文土器は,初めに縄文を施し,その上から沈線等で区画を加え,区画外の縄文を磨り消して文様を描くもので,縄文時代中期後半(約4,200年前)以降になってから日本全国に普及したものです。南九州では,指宿式土器の頃から(約3,800年前)磨消縄文の影響が見られます。
  • 山ノ中遺跡で出土した磨消縄文土器は,高知県長岡郡本山町の松ノ木遺跡から出土したものと文様の描き方・形・材料に使われた粘土等類似しています。縄文人の交流の深さが指摘されています。
    また,鹿児島県の縄文後期前半の遺跡を見てみると,薩摩半島よりも大隅半島に多くの遺跡があったことがわかっています。特に曽於郡内だけで66か所の遺跡が周知されており,これは県内全体の40%近くを占めています。関東地方に初源のある磨消縄文土器が瀬戸内地方や四国を経て南九州に波及してくるときに大隅半島側がその受け入れ口になったのではないかと考えられています。
  • ■肉より木の実が好きだった?■
  • 出土した磨製石斧と現代の斧縄文時代は弓矢を使って動物を捕り食料等にしていたと考えられるため,各々の遺跡においても多くの石鏃(せきぞく)が出土していますが,山ノ中遺跡では少々様子が違っています。

    【写真 出土した磨製石斧と現代の斧】

    例えば,石鏃や動物をさばくための石匙(いしさじ:小型のナイフのような石器)は合わせて10数点しか見つかっていないのに対し,木を切り倒したり加工するための磨製石斧(ませいせきふ)が約200本,木の実をすりつぶしたりするための道具である石皿や磨石(すりいし)や敲石(たたきいし)も多く発見されました。これらの道具は,そのほとんどが完形品ではなく,割れた状態のものであることからこの場所で使用されていたと推定されています。
  • 山ノ中遺跡出土の土器・ 石皿・石斧等縄文時代の人びとは狩猟・採集をして暮らしていたといわれていますが,山ノ中遺跡では狩猟よりも採集の方に重きをおいていたようです。

    これはこの時期に一般的な傾向だったのか,それとも山ノ中遺跡だけのものなのかは他の遺跡と比較しながらその理由を考えていかなければなりません。
  • 【写真 山ノ中遺跡出土の土器・石皿・石斧等】
  • 当時の生活の様子を知る手がかりとしてゴミ捨て場は貴重な存在です。山ノ中遺跡の地形を見てみると,住居跡が見つかっている北側は平坦地になっているのに対し,土器や石器が大量に出土した場所は急な谷になっています。
  • 土器廃棄場の検出状況このような遺跡の在り方は,鹿児島市草野貝塚や志布志町中原遺跡とよく似ています。草野貝塚は海に近く,貝をたくさん食べ貝殻を捨てたのでゴミ捨て場は貝塚となりましたが,山ノ中遺跡や中原遺跡は海から遠く貝はほとんど食べていなかったために貝塚として残るにはいたっていません。しかし,「土器廃棄場」と呼ばれる大量の土器が発見される場所があるのです。
  • 【写真 土器廃棄場の検出状況】
  • この土器廃棄場の土器がより完形に近い形で捨てられていることから,採集した木の実をすりつぶし,土器の中に水を入れ沈殿・乾燥させ,土器の底にたまったデンプンをかき出すのではなく,土器を割ってデンプンを取り出し,不要になった土器を谷部に捨てたのではないかという説もあります。
  • 秋には木の実を拾い集め,冬の食料のために穴を掘って保存したり,竪穴住居の中で石皿や磨石を使って木の実をすりつぶしていたのではないでしょうか。
    身近な自然の恵みを糧(かて)に様々な工夫を凝らし,幅広い範囲の人々と交流をもちながら生活していた私たちの祖先の生活に想像をめぐらせば興味も尽きませんね。
  • (文責)高岡 利也

考古ガイダンス第16回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第16回 瀬戸内地方との交流
  • 休日を利用して,各地の遺跡巡りをするのも良いものです。
    実際にその大地に降りて土を踏みしめると,写真や書物では決して味わうことのできない太古のロマンを満喫することができます。嬉しいことにマイカーを使えば短い時間で多くの遺跡を見て回ることも可能です。これは単に「車」という文明の利器によるものだけではなく,無数に延びる交通網の整備・発達の恩恵にほかならないことは言うまでもありません。

    当然のことですが,縄文時代には現代のような大規模で計画的な道があったはずがなく,わずか数キロメ-トル離れた隣の集落へ出かけるにも山を越え,谷を渡り,道なき道を行く大変な苦労であったことは想像に難くありません。
    しかし,そのような時代にすでに九州島内はもとより,南は南西諸島,北は中国・四国以北の地域と交流が行なわれていたとしたら,皆さんはどのように思われるでしょうか。
  • ■交流の証し■
  • 船元式土器が出土した榎木原遺跡県内各地の縄文時代の遺跡から黒曜石を用いて作った石器が出土します。黒曜石の産地として県内では大口市の日東や鹿児島市の三船などが知られています。この黒曜石が産地以外の遺跡で出土するということは,当時の人々が頻繁にその産地と行き来し,持ち込んできたということが分かります。また,有り難いことに,黒曜石は産地によって性質が異なるので,どこの産地のものか見当がつきます。その中には大分県の姫島産のものも見られ,広範囲に渡って交流が行なわれていたということが伺えます。
  • 【写真 船元式土器が出土した榎木原遺跡】
  • さらに一歩踏み込んで,「土器」をもとにしてアプローチを図っていくと交流の様相が一層明らかになってきます。そこで,縄文時代早期と中期の遺跡から出土する土器に注目し,その実態にせまってみたいと思います。
  • ■縄文時代早期■
  • 船元式土器縄文時代早期は,様々なバリエーションに富んだ土器が登場した時期で,この頃の土器の文様は,関東地方一帯に於いては縄や撚糸(よりいと)を土器面に転がして施文した「縄文」や「撚糸文」が主流であったの対し,南九州では貝殻によって施文した「貝殻条痕文」が一般的です。
  • 【図 船元式土器】
  • 春日式土器上野原遺跡をはじめ県内各地の遺跡から出土する前平(まえびら)式土器や吉田式土器など,南九州の代表的な土器の文様がそれを物語っています。ところが,縄文時代早期も後半にさしかかると,塞ノ神(せのかん)式土器など「撚糸文」を施文した土器が現われます。また,その他には,「押型文」を施した手向山(たむけやま)式土器などが出現します。押型文は,瀬戸内地方で流行した,丸棒に山形や楕円形の文様を彫刻したものを土器面に転がして施す施文法です。
  • 【図 春日式土器】
  • このことは,南九州が瀬戸内地方の施文技術の影響を受け,交流があったことを意味しています。
    さらに時代が下って,縄文時代中期に入ると,春日(かすが)式土器と船元(ふなもと)式土器が登場します。この二つの土器にも交流の様子が伺えるのでご紹介します。
  • ■縄文時代中期■
  • 鹿児島県内の各遺跡と岡山県船元貝塚の位置図春日式土器と船元式土器は,ともに縄文時代中期(約4,500年前)の土器で,県内の各遺跡では混在して出土しますが,実は,それぞれ出身地が異なるものなのです。

    春日式土器は九州南部を中心に分布する土器型式で,鹿児島市春日町遺跡を標式遺跡としています。器形は口縁部が内湾しながら外に開くキャリパー形の深鉢が主体で,器面には「貝殻条痕文」が施され,文様は無文または沈線や隆帯の渦文や曲線文が描かれています。県内では春日町遺跡をはじめとして北手牧(きたてまき)遺跡(頴娃町)や,前谷(まえたに)遺跡(松山町),根木原(ねぎはら)遺跡(鹿屋市)など数多くの遺跡で出土しています。
  • 【地図 鹿児島県内の各遺跡と岡山県船元貝塚の位置図:1 春日町,2 榎木原,3 前谷,4 船元貝塚】
  • 船元式土器は中部瀬戸内を中心に分布する同じく縄文中期の土器型式で,岡山県倉敷市船元(ふなもと)貝塚を標式遺跡とします。器面には荒く固い繊維による「縄文」や「撚糸文」が施されるのが大きな特徴で,県内では榎木原(えのきばる)遺跡(鹿屋市),鞍谷(くらたに)遺跡(枕崎市)などで出土しています。
  • これら二つの土器は,九州と中国地方という隔てられた場所にほぼ同時代に出現した土器で,全く関連性がないように思われますが,面白いことに,キャリパー形の器形や施文の手法など非常に共通点が多い土器です。特に,榎木原遺跡で出土した船元式土器の中には,岡山県倉敷考古館所蔵の船元式土器と施文や胎土(たいど)において全く類似しているものが見つかっており,これは,倉敷の地でつくられた土器がそのまま移入してきたものと考えられます。

    また,春日式土器の「貝殻条痕文」に対する船元式土器の「縄文」「撚糸文」施文の両者の相違などから研究を進めると,春日式土器は縄文時代中期より以前に南九州地方に分布していた,深浦(ふかうら)式土器等の流れを汲みながら,瀬戸内地方から移入してきた船元式土器の影響を受けて登場した土器ではないかと考えられます。

    今回は,土器型式とその分布の様子から交流の手がかりを探る一例を紹介しました。すでに遥か数千年も前に私たちの先祖は,日本列島を舞台に活躍していたという一端が見え隠れします。彼らはどのような方法で行き来し,どのような形で交流をしたのでしょうか,想像が尽きることがありません。遥か太古に想いを駆け巡らす。これもまた,ロマンですね。
  • 用語解説
  • 縄文早期・中期 一般的に縄文時代は,草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六つの時期に区分される。
    早期は今から約9,000年~6,000年前,中期は約5,000年~4,000年前とされている。
    黒曜石 黒色や暗灰色を呈するガラス質の火山石。砕けば破片になりやすく,矢じり等の小型
    の石器の材料として良く利用された。
    キャリパー形 計測に用いる測径両脚器(キャリパー)を開いた形のこと。
    撚糸文 撚った糸を軸に巻き,土器面に回転押捺してつけた文様。
    貝殻条痕文 ハイガイ,ハマグリ等の二枚貝の背や腹の部分を土器面に押し当ててひっ掻いて施文
    した文様。
    押型文 彫刻のある丸棒を土器面に回転し,施文した技法で,山形・格子目・楕円など様々な文様
    がある。
    胎土 土器の素材となる粘土や混和材。
  • (文責)野邉 盛雅

考古ガイダンス第15回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第15回 “残された”鹿児島の大貝塚
  • ■-柊原(くぬぎばる)貝塚が語りかけるもの-■
  • その神社は,白っぽい小さな丘の上に建っていました。よく見ると丘のあちこちに貝殻がみえます。というよりも,丘そのものが貝殻でできているようです。土器の破片や骨のようなものも落ちています。神社はなんと「貝塚」の上に建てられていたのです。
    以前に筆者が,某県のとある縄文貝塚を探し歩いたときの話です。それは家々の間に突如として出現し,まるで現代人の生活の中に溶けこんでいるかのようでした。
    「ゴミ捨て場」,あるいは「古代のタイムカプセル」。教科書にのっている貝塚のイメージはさておいて,まずは身近なところから話を始めましょう。
  • 縄文時代後期の主な貝塚(3,000年-4,000年前)
  • 縄文時代後期の主な貝塚分布図1
    縄文時代後期の主な貝塚分布図2
    奄美大島
    縄文時代後期の主な貝塚分布図3
    喜界島
    縄文時代後期の主な貝塚分布図4
    徳之島
    1 江内 / 2 出水 / 3 麦之浦 / 4 石間伏 / 5 尾賀台
    6 市来 / 7 武 / 8 光山 / 9 草野 / 10 大泊
    11 宇宿 / 12 伊実久 / 13 喜念 / 14 面縄

  • ■眠る大貝塚を探せ■
  • 空からみた柊原貝塚垂水市柊原(くぬぎばる)の海岸沿いの平地一帯は,古くから“貝殻の産地”として知られ,江戸時代の観光ガイドブック『三国名勝図会』(さんごくめいしょうずえ)にも「古来これを取れども尽きることなし」と書かれています。地元でも,大正時代頃まで肥料などに用いる貝灰を製造していたほどです。
  • 【写真 空からみた柊原貝塚】
  • 「どこかに大貝塚が眠っているのでは?」と誰かが考えても不思議ではありません。大正3年,N.G.マンローというイギリス人の学者が実際に発掘調査を行い,土器を採集したという記録があるものの,はっきりした貝塚の場所などは長い間謎に包まれていました。
  • ところが近年になり,柊原沿岸に残るJR旧大隅線跡を農免農道として整備する計画が浮上し,平成7年度と平成9年度に発掘調査が行われたところ,ついに“それ”は姿をあらわしました。

    そこは柊原地区でも南のはずれで,ちょうど台地が切れて平地が広がる部分にあたり,かつては小さな入り江であったことを想像させるような地形です。土地の人は昔から「塚」と呼んでいたといいます。発見された貝塚の面積は約500平方メートルで厚さは約1メートル,地面に盛り上げるように築かれていました。周囲の畑部分や大隅線造成時に削られたと思われる部分も計算にいれると,実際の大きさは2倍近いものと想定できます。全国的にみても大規模で,これまで県内で発見された貝塚のなかでも最大級といえるでしょう。
  • ■タイムカプセルの中身■
  • 埋葬された縄文時代後期の人骨では柊原貝塚の中をのぞいてみましょう。貝殻のカルシウム分でアルカリ性に保たれた内部は,酸性の土やバクテリアの浸食から守られた天然の保存カプセルです。
    まずは食料から。
    貝の量・種類は豊富ですが,他の遺跡と比較して巻き貝の割合が高いことが特徴です。動物ではイノシシ・シカが圧倒的で,オオカミ・ツキノワグマなど珍しいものもみられます。
  • 【写真 埋葬された縄文時代後期の人骨(20歳前後の男性)】
  • また,南九州では初めて「埋葬された可能性があるイヌの遺体」が発見されたことが話題になりました。糞石(ふんせき)と呼ばれるウンコの化石の中からは,タイ類やイワシ類などの骨が出てきました。植物ではドングリ類が多く食べられていたようです。
  • 市来式土器次に生活用品をみてみましょう。
    貝層中にみられる土器は,市来式(いちきしき)土器など縄文時代後期中ごろのものが主体であることから,この貝塚が約3,500年前に形成されたことがわかりました。

    石斧(いしおの)や石錘(せきすい)・骨製釣り針などの実用品も多いですが,やはり貝輪(かいわ)・骨製髪飾り・牙製首飾りのように細工の施された装飾品の数々は,柊原人の感性がじかに伝わってくるようで興味深いものがあります。
  • 【写真 市来式土器】
  • 細かな装飾が施された骨製髪飾り軽石製岩偶当時の精神生活を物語る遺物にも注目です。軽石に線を刻んで人体あるいは性器を模したと考えられている岩偶(がんぐう)が,これまでになく大量に出土しています。また,動物の姿をかたどった獣形土製品(じゅうけいどせいひん)は県内で初めての例です。これらのものに,人々はどんな祈りや想いをこめたのでしょうか。さらには埋葬人骨も5体出土しています。発掘作業員は常に塩を身につけ,調査に臨んだといいます。
    【写真左:細かな装飾が施された骨製髪飾り(髪針) / 同右:軽石製岩偶 赤い顔料が塗られたものもある】
  • このように貝塚の中身を調べることで,当時の生活の様子や自然環境など多くの情報を得ることができます。そして私たちは,そこが単なるゴミ捨て場ではなく,現代人が失いつつある「役目を終えたものに対する畏敬(いけい)の気持ち」が込められた場所であることを知るのです。
  • ■海を渡った?柊原(くぬぎばる)人■
  • 舟形軽石製品柊原貝塚が形成された縄文時代後期,南九州の貝塚数はピークを迎えました。代表的な遺跡として,出水市出水貝塚・市来町市来貝塚・川内市麦之浦(むぎのうら)貝塚などがあげられます。

     なかでも錦江湾を隔てて柊原のほぼ対岸に位置する鹿児島市草野貝塚は,土器や軽石製岩偶・骨製髪飾り・舟形(ふながた)軽石製品など,出土遺物に柊原貝塚と共通するものが多くみられます。
  • 【写真 舟形軽石製品】
  • まるでお互いひんぱんに行き来していたかのように。それが事実ならば,まさに垂水フェリーのルーツといえますね。
  • この両遺跡に共通してみられる市来式土器は,遠く五島列島や沖縄本島にまで出土例があります。この土器を残した人々は,舟を操って果敢に大海原へと挑んだ海洋民であったのでしょうか。残念ながらどの遺跡からも舟は発見されていません。あるいは,木製の舟は腐って残らなかったのかもしれません。ただ,舟の形をした軽石製品の存在が私たちの想像力をかき立てるのです。
  • ■失われゆく,残された貝塚■
  • 現在コンクリートの岸壁によって,海岸線や干潟など人間と海との接点が確実に失われつつあります。遺跡としての貝塚の多くも,他の遺跡と同様に発掘調査終了後には消えていく運命です。貝塚は自分たちの祖先が生きていくために「豊かな海」と積極的な関わりを持ってきたという確かな記録です。私たちはまるで,海に関わる未来と過去を同時に亡くしているかのようです。
    整備された柊原の農道を走ってゆくと,遺跡名を記した標柱が立っているのがみえます。実はこの道路下には,その重要性から埋め戻しという極めて異例の措置がとられた大貝塚が,今再びの眠りについています。
    残されたものの意味や意義をどのように後世へと伝えていくのか,すべては私たちの手に委ねられています。

    再び白っぽい小さな丘にもどりましょう。
    貝殻を踏みしめながら歩いていると,縄文土器だけでなく古墳時代の土器や江戸時代の茶碗など,いろいろな時代のカケラがみつかりました。ジュースの空き缶までもが捨てられています。縄文時代に生まれたこの貝塚は,今もなお現代人の生活の中で生き続けています。そう考えると急にこの遺跡が身近に感じられ,少し明るい気持ちで帰路につきました。
  • 【写真提供・垂水市教育委員会】
  • 用語解説
  • 石錘 石の隅を打ち欠いて作った,漁猟に用いられたと考えられる錘(おもり)
    貝輪 貝をくり抜いて作った腕輪。遺体の副葬品として出土することもある。
    岩偶 石や軽石を彫り込んで作られた人や動物などの偶像。
    畏敬 相手を「おそれ」「うやまう」気持ち。
  • (文責)今村 敏照

考古ガイダンス第14回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第14回 山ノ口式土器と大隅半島
  • ■山ノ口遺跡の発見■
  • 遺跡分布図昭和33年,大根占町馬場山ノ口集落の砂丘上で,民間の会社による砂鉄の採掘が行われていました。その最中に砂の中から弥生時代の中頃(約2,000年前)の土器片や,軽石に人の顔などを刻んだ岩偶(がんぐう)が見つかりました。これが山ノ口遺跡の発見です。

     その後の緊急発掘調査では,約3mの大きさに軽石が円形に並べられ,その周囲ではたき火が焚かれた跡が発見され,農耕儀礼(のうこうぎれい)などの祭りを行った跡であることが分かりました。祭りでは軽石製の勾玉(まがたま),岩偶,石でつくった矢じり,胴に穴のあいた壺形土器(つぼがたどき)が円形に並べられた軽石を取り囲むように配置されていました。
    発見された土器は山ノ口式土器と呼ばれています。
  • 【地図 大隅半島遺跡地図:1 沢目遺跡,2 前畑遺跡,3 王子遺跡,4 山ノ口遺跡】
  • ■山ノ口式土器の特徴■
  • 山ノ口式土器山ノ口式土器

    図左と図中
    ○壺形土器
     (口の部分に櫛描文がある)


    図右
    ○カメ形土器
  • 山ノ口式土器には煮炊きに使うカメ形土器と,穀物類や水などを貯蔵する壺形土器(つぼがたどき)があります。カメ形土器は口の部分が外側へ「L字形」に飛び出し,胴の部分には三角形の粘土ひもがいく筋もめぐらされています。このような特徴は縄文時代の終わり頃の土器作りの伝統を根強く残しています。一方,壺形土器は口の部分を外側へ拡張したり,胴を粘土ひもで飾るなどカメ形土器に共通する部分も見られますが,口の部分には瀬戸内地域の土器によく見られる櫛描文(くしがきもん)と呼ばれる文様が描かれており,交流があったことを示しています。

    当時の人々は,カメ形土器を自分たちの伝統としてかたくなに守り,壺形土器を他の地域の流行りの文様として取り入れながら作っていました。また,食べ物を盛る用途の高坏(たかつき)は,地元では作られず,現在の福岡県や愛媛県の周辺で作られたものを使用しているのも一つの特徴です。山ノ口式土器は大隅半島を中心に分布していますが,沖縄や奄美からも見つかっており幅広い地域と交流していたことがうかがえます。このような土器を使った人々の生活を集落遺跡からもう少しくわしく見てみましょう。
  • ■台地に発達した集落■
  • 台地に暮らした人々の集落 鹿屋市王子遺跡弥生時代になると,人々は稲作を行うために積極的に平野の開拓を始めました。しかしシラス台地が発達し平野の少ない鹿児島では,弥生時代になっても台地上に多くの人々が暮らしていました。山ノ口式土器を使った人々の集落跡は,標高の高い平坦な台地上から発見されています。このような場所は水田耕作には適さないため,畑作(陸稲)を中心に生活を営んでいたと考えられています。その代表的な遺跡として,鹿屋市王子町の王子(おうじ)遺跡や同市郷之原町の前畑(まえはた)遺跡などがあります。
  • 【写真 台地に暮らした人々の集落 鹿屋市王子遺跡】
  • 標高約70メートルに位置する王子遺跡では,竪穴住居跡が27軒,掘立柱建物跡が14棟発見されました。鹿児島県でこれまでに発見されている遺跡の中でも規模が大きい集落跡です。
  • 張り出し部分を持つ竪穴住居 鹿屋市王子遺跡竪穴住居はまず地面を掘って床面を造りますが,掘った穴の形はだいたい円形か方形をしています。しかし王子遺跡の住居は部分的に外側へ張り出し部を持つもので,大隅半島や宮崎県を中心にに見られる独特の形をしたものです。また,集会場などに利用された可能性のある棟持柱(むなもちばしら)を持つ掘立柱建物のような特殊な建物も発見されています。
  • 【写真 張り出し部分を持つ竪穴住居 鹿屋市王子遺跡】
  • これらの建物は前畑遺跡や周辺の遺跡でもみつかっており,同じ山ノ口式土器を使う人々の間では,共通の認識でした。その他に,鍛冶(かじ)を行う時に出てくる鉄滓(てっさい)が見つかったことから,王子遺跡から出土したやりがんなは現地で作られた可能性もあります。当時,砂鉄や鉄鉱石から鉄を作る技術はまだ無いため,朝鮮半島産の鉄素材を入手し,再び鍛冶炉(かじろ)で熱を加え鉄製品に再加工していたと考えられています。
  • 山ノ口式土器が使われていた頃,西日本では銅製の剣や矛(ほこ),銅鐸(どうたく)を使って祭りを行うことが一般的でした。しかし大隅半島では,山ノ口遺跡に見られるように地域独特の祭りが行われていました。このことは山ノ口式土器の製作方法と同様に外部の影響をマイペースに必要なだけ取り入れながらも,自分たちの伝統を大切に守っていこうとする当時の人々の意識のあらわれなのかもしれません。
  • 用語解説
  • 勾玉 ゆるく湾曲(わんきょく)した装飾用の玉で紐に通して首,えりの飾りとした
    櫛描文 櫛を使って描いた文様
    竪穴住居 地面を水平に掘り下げ床面を作り,竪穴の中に柱を立て屋根をかけた半地下式の建物
    掘立柱建物 地面に柱穴を掘って柱を立て,屋根や壁を造る平地式の建物
    鉄滓 鉄を焼いてきたえるときに落ちるかす
    やりがんな 細長い棒状の鉄の先端を三角形にして両刃をつけた木工具
    かんなが発明されるまで木材の表面をなめらかに仕上げるために使われた
    銅鐸 つまみ状のつり下げ部を持ち,内側に舌をぶら下げた青銅製の鐘(かね)
    初めは楽器として使用されるが,やがて大型化し祭器として使用されるようになる
  • (文責)川口 雅之

考古ガイダンス第13回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第13回 めざめる遺跡
  • 新幹線関連の遺跡もうすぐ,鹿児島に新幹線がやってきます。
    現在,鹿児島県のあちらこちらで九州新幹線鹿児島ルート建設のための工事が行われており,その工事の約70%がトンネル(新八代・西鹿児島間125キロメートルのうち88キロメートル)工事です。

    その中で,新幹線がトンネルから姿を現す地上部分で埋蔵文化財が眠る大切な遺跡とぶつかることがあります。 
    そこで,鹿児島県教育委員会(県立埋蔵文化財センター)は,文化財保護のため,新幹線建設工事にぶつかってしまう遺跡の発掘調査を行いました。
    それぞれの遺跡では,縄文時代から最近までのいくつかの時代の生活の跡がみられる複合遺跡で,昔の人々の生活の様子を知る上での貴重な手がかりが多く発見されています。
  • 【地図 新幹線関連の遺跡:1 大坪遺跡,2 計志加里遺跡,3 上野城跡,4 山ノ脇遺跡】
  • ■玉類の発見■
  • 大坪遺跡出土の玉類出水市大坪遺跡では,縄文時代晩期(約3,000年前)のものと思われる緑色をした勾玉(まがたま),丸玉(まるたま),管玉(くだたま)が多数出土しています。
    この玉類は,縄文人がきれいな緑色の石に根気強く穴をあけ,きれいに磨きあげたものです。これらは,当時の人々がペンダントとしての装身具や呪(まじな)いの道具として使っていただろうと考えられます。
  • 【写真 大坪遺跡出土の玉類】
  • これらの玉類をよく観察するときれいに作り上げられた完成品の他に,製作途中の玉類や原石も多く見つかっています。このことは,大坪遺跡で遠い昔,せっせと勾玉作りに精出していた人々がいたであろうことを物語っています。
  • ■川跡からめざめた木製品■
  • 川跡から見つかった木 製の鍬川内市楠元遺跡では,弥生時代の終わりから古墳時代の初め(約1,700年前)の集落跡が発見されました。同時に発見された川跡や溝跡から鍬(くわ)や鋤(すき)などの木製の農具が,腐ることなく当時のままの形で見つかりました。
    火山灰土壌が多く低湿地帯の少ない鹿児島では,木製品がそのままの形で見つかることはとてもめずらしいことです。 今回見つかった木製品を一つ一つ分析・研究することにより古代生活の1ページがまた1つ明らかにされることでしょう。
  • 【写真 川跡から見つかった木製の鍬】
  • ■役人の制服■
  • 川内市東大小路町大島遺跡では,奈良時代から平安時代の土師器・須恵器・磁器・陶器などの焼物の器(うつわ)や青銅製の鈴,石製丸鞆(せきせいまるとも)が見つかりました。
    丸鞆(まるとも)は,帯の表面に取り付けられる半円形の石の板です。儀式時に着用し,身分により種類がちがったようです。遠い昔,薩摩国府の役人が,この丸鞆を身につけて,毎日登庁していた姿が目に浮かぶようです。
  • ■中世の居館跡■
  • 山ノ脇遺跡の中世豪族 居館跡伊集院町山ノ脇遺跡では,中世(約800年前)の掘立柱建物跡がたくさん見つかりました。

    現在,9軒の建物跡が確認されています。その中で,面積が約100平方メートルにもおよぶ大きな建物跡も2,3軒含まれています。建物の大きさから,当時の伊集院地方の有力者の居館であろうと考えられます。
    建物の周囲には,溝跡や塀跡(へいあと)も見つかっており,当時,ここに住んでいた人の生活の様子が想像できそうです。
  • 【写真 山ノ脇遺跡の中世豪族居館跡】
  • ■鹿児島有数の禅寺発見■
  • 寿国寺のはん池跡鹿児島市武2丁目武遺跡(西郷公園の近く)では,江戸時代中期(享保14年)に創建され,明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺となった寿国寺(じゅこくじ)に関係すると思われるはん池(はんち)や井戸跡が見つかりました。
     寿国寺は,黄檗宗(おうばくしゅう)に属し,同じ宗派の千眼寺(せんげんじ)と並ぶ当時の鹿児島最大の寺院でした。寺院の様子は,三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)の中の記載から相当な規模であったと想像できます。
    今回,見つかったはん池は,当時の様子を伝えるいくつかの絵図に記載されている門前池の一部であろうと考えられています。
    この池には,内側に浮島(中島)が設けられていて,そこには石像が設置されていたことが伝えられていますが,今回の発掘調査で,この石像ではないかと思われる破片が見つかっています。 また,池の西側で見つかった井戸跡や柱跡は,長寿院のものではないかと考えられています。
    当時の寺の様子が再現されたようで興味深いものがあります。
  • 【写真 寿国寺のはん池跡】
  • 以上最近の情報をいくつか紹介しましたが,新幹線建設に関係して発掘調査された遺跡からは,旧石器時代,縄文時代,弥生時代,古墳時代,奈良・平安時代,中世,近世の全ての時期・時代にわたる貴重な遺構・遺物が発見されました。
    これらの発見は,鹿児島あるいは南九州の古代の文化解明に大いに役立つことでしょう。
  • (文責)上之園 建二

考古ガイダンス第12回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第12回 かごしまで焼かれた焼き物
  • ■焼き物でみる古代の鹿児島■
  • 遺跡を発掘して最も多く出土するモノが焼き物すなわち土器です。これらを分析することによって,当時の食卓にのぼった食器の種類がわかります。また土器をひとつの製品としてみれば,窯業生産と流通・消費という経済活動を知ることができます。このように土器から当時の食文化を知り,さらに当時の社会の側面をうかがい知ることができます。
    古代(奈良・平安時代-今から約1,300年から800年前)にかごしまで焼かれた焼き物は,須恵器(すえき),土師器(はじき),黒色土器,瓦です。
  • 遺跡分布図今回取り上げた主な遺跡
    1 岡野窯跡群 / 2 鶴峯窯跡群
    3 薩摩国分寺跡 / 4 中尾田遺跡
    5 宮田ケ岡瓦窯跡群 / 6 小瀬戸遺跡
    7 城山山頂遺跡 / 8 妻山元遺跡
    9 大隅国分寺跡 / 10 中岳山麓窯跡群
    11 榎崎A遺跡

    宮田ケ岡瓦窯跡
    【写真 宮田ケ岡瓦窯跡】
  • ■古代の食器■
  • 土師器・杯
    土師器・杯
    (口径14.8cm高さ4cm)
    須惠器・かめ
    須惠器・かめ
    (口径19cm高さ32.5cm)
    黒色土器A類・椀
    黒色土器A類・椀
    (口径15.6cm高さ5.5cm)
  • 当時,土師器,黒色土器,須恵器は日常的に使用された土器です。これらの土器は,その用途によって食膳具(椀,坏,皿,高坏),煮炊具(カメ,鍋),貯蔵具(壺,カメ),調理具(鉢)に分類され,多様な形があることがわかります。
    土師器とは古墳時代以降の素焼き土器の総称で,この時代のものは須恵器の形を真似た坏や皿などが薩摩・大隅といった国単位で製作されていたと考えられていますが,その窯跡は不明です。

    黒色土器は,土師器の表面を丁寧に磨いた後に表面を煙で黒く燻して仕上げる土器で,器の中だけを燻す内黒土師器とよばれるものが多く出土しています。

    須恵器とは,古墳時代中頃(5世紀中頃)以降,朝鮮半島から技術が伝来した焼き物です。整備された窯で1,100度以上の還元焔で焼成(焼き上げる時に酸素を供給しない焼き方)された焼き物です。色は青灰色のものが多く,釉薬はかけていません。古墳時代は大阪・陶邑(すえむら)窯群などで焼かれたものが移入されています。古代になると,熊本の荒尾窯などで焼かれた製品も移入されていますが,鹿児島でも窯が整備されて生産されるようになりました。
  • ■かごしまの須恵器生産窯■
  • 三か所の窯跡が知られています。操業期間や器種に差異があります。

    鶴峯3号窯(川内市中郷町鶴峯)
    昭和41年,1・2号窯跡(瓦窯)とともに県内で初めて発見された須恵器窯で,フタ,椀,カメが出土しています。8世紀代に操業していたものと考えられています。

    岡野窯跡群(伊佐郡菱刈町田中岡野)
    昭和57年,林道の工事中に発見されました。工事によってかなり破壊されていましたが,5基ほどが存在したものと推定されました。うち4基が発掘調査され,8世紀末から9世紀前半にかけ て,坏,椀,鉢,盤,壺,カメが作られました。

    中岳山麓古窯跡群(日置郡金峰町花瀬)
    昭和59年,地元在住の諏訪下忠雄氏によって発見され,上村俊雄氏(鹿児島国際大教授・考古学)らによって確認された窯跡群です。発掘調査はなされていませんが壺,カメのほか焼台といった窯道具が採集されています。製作技法は熊本県荒尾窯群との関連が深いとみられています。

    9世紀後半以降のかごしまの須恵器生産は食膳具が生産されなくなり,壺やカメだけが生産されました。大きく硬い須恵器の貯蔵具だけ需要があったようです。それを補うように土師器の食膳具の量が増えていきました。
  • 国分寺の屋根を飾った瓦
  • 薩摩国分寺創建時の軒丸瓦古代の瓦生産は,須恵器の製作技術を基礎にしています。そこに瓦の技術と仏教の思想が伝来し,飛鳥寺など寺院建立を期に本格化しました。さらに8世紀中頃以降,全国に国分寺・国分尼寺が建立され,これに伴ない全国に瓦生産が広がっていきました。現在瓦は一般的ですが,当時は官衙(役所)あるいは寺院で使用される特別なものでした。古代の瓦は,型に布を敷いてその上に粘土を置き,叩いて型に広げ仕上げます。布目がつくので布目瓦ともよばれています。
  • 【図 薩摩国分寺創建時の軒丸瓦(拓本と断面図/川内市教育委員会)】
  • ■かごしまの古代瓦窯■
  • 発掘された宮田ケ岡3号瓦窯跡二か所の瓦窯跡が知られています。

    鶴峯瓦窯跡群(川内市中郷町鶴峯)
    薩摩国分寺跡から北東へ1キロメートルの地点に位置しています。昭和41年,2基発掘調査されました。その結果ここで8世紀後半以降,薩摩国分寺を創建するために瓦が生産されたことがわかりました。また,肥後国分寺や大宰府で出土する瓦に類似するものがあることから,操業するにあたって北部九州から工人集団が移住したと考えられています。1基は焼成部に瓦がつまったままの状態で発見され,平瓦320枚,丸瓦140枚,計460枚が一度に焼かれたと推定されています。
  • 【写真 発掘された宮田ケ岡3号瓦窯跡】
  • 宮田ケ岡瓦窯跡群(姶良郡姶良町船津)
    昭和45年九州縦貫自動車道建設に伴う分布調査の際に発見され,姶良町は平成8年から史跡整備を目的とした発掘調査を実施しました。3基が発掘調査され,軒丸(のきまる),軒平(のきひら),丸,平,のし瓦などが出土しまし た。文献により8世紀後半から9世紀前半に操業していたと考えられています。
  • ■消費地を追及する■
  • これらの窯で生産された須恵器や瓦はどこで消費されたのか?この問いに対して,考古学ではまず生産地と消費地とのモノの類似性(形・文様・作り方=製作技法)に注目します。さらに,胎土分析(蛍光X線分析)という理化学的な技術を用います。この分析は試料にX線を当て,その際に発生する蛍光X線(元素によって異なる)を計測するものです。試料に含まれるルビジウム,ストロンチウムなどの元素量を調べて,この元素比率を生産窯と消費遺跡との間で比較したり相違をみたりします。

    さて,宮田ケ岡瓦窯群の製品については同じ大隅国に所在する大隅国分寺との関連が以前から指摘されていました。胎土分析の結果,宮田ケ岡瓦窯群の瓦は大隅国分寺(霧島市),小瀬戸遺跡(姶良町)へ供給されたことが推定されました。宮田ケ岡と大隅国分寺は直線距離でも約15キロメートルありますが,宮田ケ岡は別府川に近いことから,水運を利用したのではないかと想像されています。

    須恵器の胎土分析では岡野3号窯の製品が中尾田遺跡(横川町)や城山山頂遺跡(霧島市)へ,中岳山麓窯跡群の製品は妻山元遺跡(霧島市)に供給されたと推定されました。霧島市内の近い位置にある遺跡間でこのような結果が出たことは当時の流通を考える上で重要なことでしょう。
  • (文責)中村 和美

考古ガイダンス第11回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第11回 長島の古墳
  • ■長島の古墳■
  • 長島の古墳の発見・研究は,出水高校考古学研究部の池水寛治先生と生徒の皆さんを中心に実施されました。昭和37年を皮切りに48年にまで多くの発掘調査が行われ,たくさんの成果が挙げられています。その発掘調査の成果を概観してみると,長島の古墳は,見通しの良い丘陵上にある古墳と海岸部にある古墳に分けられ,次のような相違点を持っています。
  • 長島の古墳分布図長島の位置図
    1 唐隅古墳
    2 指江古墳群
    3 小浜崎1・2号墳
    4 白金崎・鬼塚・楽之平古墳
    5 明神古墳群
    6 温之浦古墳群
    7 浜漉横穴
    8 加世堂古墳
    9 山門野遺跡
  • 丘陵上にある古墳
    単体もしくは数基からなる群集墳,大規模な横穴式石室,副葬品が多く種類も豊富
    古墳(群)名 墳 丘 石 室 副 葬 品
    加世堂古墳 全長約8m 葺石 横穴式石室 須恵器・鉄製武器
    小浜崎1号墳 最大長18m 円墳
    竪穴式石室 鉄製武器
    小浜崎2号墳 不明 箱形 鉄製武器・鉄製の鎌・錐・少量の玉類
    白金崎古墳 全長約7.3m 横穴式石室 須恵器・鉄製武器・金銅製品(銅鏡破片・耳環・金具)・玉類
    鬼塚古墳 全長約11m 円墳
    石と土
    横穴式石室 須恵器・鉄製武器・耳環(金環・銀環)・玉類
  • 海岸部にある古墳
    数十基を越す群集墳,小規模な竪穴式・横穴式を模した独特の形の石室,副葬品は少なく種類も乏しい
    古墳(群)名 墳 丘 石 室 副 葬 品 個 数 
    指江古墳群 小規模・石 小規模竪穴式石室・横穴式石室を模した形 鉄製武器 140基以上
    明神古墳群 小規模・石 小規模・横穴式石室を模した形 土師器・鉄製武器・銅鏡・人骨・軽石・珊瑚・貝類 30基
  • この2つの古墳の共通の特徴として,次の3つを挙げることができます。

    1. 畿内地方(畿内勢力)の影響が感じられること 
    2. 墳丘形成に石を用いていること
    3. 副葬品に鉄製の武器が多いこと

    しかし,この丘陵上と海岸部の2つの古墳の関係や,副葬品,古墳群内の個々の関係は何によって生じたものなのでしょうか。未だ解明されておらず今後の研究課題といえます。 
  • 白金崎古墳
    白金崎古墳(鹿児島県歴史資料センター黎明館)
    白金崎古墳出土遺物
    白金崎古墳出土遺物(同)
  • ■時代背景■
  • 長島の位置する八代海沿岸地域には,畿内地方の影響を受けた古墳と南九州独自の地下式板石積石室墓が共存しています。畿内型・南九州型の古墳の共存することはなにを意味しているのでしょうか。鹿児島県内の古墳の多くは,平野部の中に造られています。一方,長島の古墳は海岸部や海を見渡せる丘陵上に造られています。このことは,海への強い関心を想起させます。古墳内部には鉄製の武器類が多く納められ,武力への意識を彷彿とさせます。黒瀬戸海峡・八代海に囲まれたこの地が,古墳時代に海上交通・海洋軍事戦略の要所であったと思われます。
  • 横穴式石室を模した石室の模式図
    横穴式石室を模した石室の模式図
    竪穴式石室を模した石室の模式図
    竪穴式石室を模した石室の模式図
  • ■古墳を残した人々■
  • 長島の中には畿内地方の影響を感じる遺跡が発見されています。東町山門野(やまどの)遺跡です。山門野遺跡は平野の中に位置し,あたかも山門野遺跡が水俣市・出水市・川内市・阿久根市付近に住む人々へ睨みをきかし,監視しているかのようです。  

    長島の古墳・古墳時代については未だに不明な点も多く存在します。そのなかで,かつて万葉にも歌われた渦潮渦巻く黒瀬戸海峡は,人を拒み,自然の造り上げた防御施設として脚光を浴びた時代があったようです。その黒瀬戸海峡を挟み九州島と対峙する長島に土器や古墳(墓)に畿内地方の影響が点として見られます。その点は,畿内地方から瀬戸内海・周防灘を経て有明海・筑後平野・八代海を繋ぐ線の中に存在します。しかしながら,技術の進展は黒瀬戸海峡を鉄の橋で繋ぐに至り,古墳や遺跡は現在に生きる我々にとって過去の史実に思いを馳せる断片としての存在になっています。
     
    これまで述べてきた長島の古墳(古墳時代)に関する成果は先に述べたように池水寛治先生と出水高校考古学部の生徒の手によるものが大でした。また,調査時には長島町・東町の皆様にもご協力を頂いています。その後,この生徒さんの中から考古学の世界で活躍されている方が生まれています。遺跡が人を育てたのです。
  • 用語解説
  • 墳丘  古墳を形作る盛土のこと
    石室  石で造られた遺体を安置する部屋 
    竪穴式石室  石室の形の1つ。個人用。完全に土をかぶせる
    横穴式石室  石室の形の1つ。数回の埋葬が可能なように横に入り口がある
    副葬品  遺体と一緒に石室内に埋葬された品々
    葺石  古墳の土が流れるのを防ぐために墳丘の上を覆った石
  • (文責)西園 勝彦

考古ガイダンス第10回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第10回 畿内勢力の浸透
  • 南九州の古墳の様相・畿内型古墳の分布域と南九州の墓制1  飯盛山古墳
    2  横瀬古墳
    3  唐仁古墳群
    4  塚崎古墳群
    5  岡崎古墳群
    6  小浜崎古墳群
    7  指江古墳群
    8  鳥越古墳群
    9  脇本古墳群
    10 船間島古墳群
    11  弥次ケ湯古墳
  • 【地図 南九州の古墳の様相・畿内型古墳の分布域と南九州の墓制】
  • 3世紀末から4世紀に,土を高く盛り上げて造る高塚墳(たかつかふん)と呼ばれる大型の墓が,近畿地方を中心に盛んに造られるようになりました。これらの墓は,当時の権力者(豪族)(ごうぞく)が,他の豪族や人々に権力を示すために造らせたものです。円墳や方墳などいろいろある高塚墳の中でも,前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は,この時代(古墳時代)の代表的な墓です。大阪府にある大山古墳(だいせんこふん・仁徳陵)は,長さ約480メートル,幅約300メートル,高さ約35メートルもあり,世界でも類をみない大きさです。

    高塚墳は近畿地方を中心に造られ始めたため,畿内型古墳とも呼ばれます。5世紀までには東北から九州まで分布するようになりました。この畿内型古墳の分布は何を意味するものでしょうか。
    南九州の古墳文化の様相を紹介しながら,その意義について考えてみます。
  • ■南九州の畿内型古墳■
  • 大崎町 横瀬古墳南九州への畿内型古墳の伝播には,大きく2つのルートがあります。1つは,佐賀,熊本から薩摩半島西岸沿いに伝播してくるルート。もう1つは,宮崎から大隅半島東岸沿いに伝播してくるルートです。
    薩摩半島西岸沿いの地域では,4世紀中頃にはすでに阿久根市に鳥越1号墳が築かれています。この鳥越1号墳は,初期畿内型古墳の様相を示し,3世紀末に成立した大和朝廷の影響が急速に南九州まで及んでいったという事実が伺えます。
  • 【画像 大崎町 横瀬古墳】
  • 大隅半島の志布志湾沿岸地域では,5世紀前半に志布志町のダグリ岬に飯盛山古墳(いいもりやまこふん)が築かれました。その後大崎町の横瀬古墳(よこせこふん),東串良町の唐仁大塚古墳(とうじんおおつかこふん)などの巨大な前方後円墳が築かれていきます。
    しばし,この巨大前方後円墳に目を向けてみましょう。
  • ■志布志湾沿岸沿いの古墳■
  • 大崎町 横瀬古墳肝属川(きもつきがわ)流域の肥沃な沖積平野を背景に,この地域には古墳が集中し,鹿児島県内最大規模の前方後円墳が存在します。大崎町の横瀬古墳(国指定史跡)は,水田の中に全長132メートル,高さ約12メートルの優美な姿を見せ,周囲には幅12~23メートル,深さ約1.5メートルの濠(ほり)も確認されています。

    墳丘(ふんきゅう)や濠からは,須恵器(すえき)や埴輪(はにわ)などの破片が発見されています。本県で埴輪を有する古墳は,現在のところ志布志町の飯盛山古墳とこの横瀬古墳だけです。須恵器は,韓国南部の伽耶系(かやけい)の陶質土器である可能性が高いと思われます。
  • 【写真 大崎町 横瀬古墳】
  • 横瀬古墳の西約4キロメートル,隣接の東串良町新川西に前方後円墳4基,円墳133基からなる県内最大の唐仁古墳群(国指定史跡)があります。
    その中の大塚古墳(1号墳)は,全長180メートル,後円部の高さ約10メートル,九州でも最大級の前方後円墳です。大塚古墳の後円部墳頂は,大塚神社が建てられる時に削平されたと思われます。そのため,竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)の天井部が露出しています。石室内部には石棺(せっかん)が置かれ,棺外に短甲(たんこう)が副葬(ふくそう)されていました。5世紀中頃の古墳と考えられています。

    この他,串良町の岡崎古墳群,高山町の塚崎古墳群(国指定史跡)があり,肝属平野を中心に畿内型の古墳が集中しています
  • ■薩摩半島西岸沿いの古墳■
  • 薩摩半島西岸沿いでは,どのような様相が見られるのでしょうか。
    前述のように,いち早く畿内型古墳が出現するのは,阿久根市の鳥越1号墳です。墳丘は削平され形状は不明ですが,竪穴式石室は九州第2位の大きさで,初期畿内型古墳の特徴を備えています。その後も5世紀中頃以降,長島の小浜崎古墳群や指江古墳群,阿久根市の脇本古墳群など,畿内型古墳がみられます。

    このような畿内型古墳は,川内市までみられ(船間島古墳等),川内市がその南限とされていました。平成10年,これまでの認識を一変させる発掘が指宿市でありました。弥次ケ湯(やじがゆ)古墳です。この発見は,古墳文化の南限の見直しと,階層社会がすでにこの地域でも成立していたことを認識させるものでした。
  • ■南九州の古墳の様相■
  • 地下式横穴墓
    地下式横穴墓
    地下式板石積石室墓
    地下式板石積石室墓
    立石土坑墓
    立石土坑墓
  • ここまで,畿内型古墳を中心に目を向けてきましたが,南九州では,畿内型古墳のほかに,地下式横穴,地下式板石積石室(ちかしきいたいしづみせきしつ),土坑墓(どこうぼ)等の埋葬(まいそう)形態があります。

    畿内権力浸透の現れである高塚墳と,南九州独特の墓制である地下式横穴,地下式板石積石室は混在しています。このことは,大和政権の影響が南九州まで及んでいたにもかかわらず,その全てを受け入れたのではなく,南九州の古墳文化がこれまでの文化を踏襲した中に,大和政権の影響を受け入れる形で形成されたことも示しています。

    南九州のある地域は早くから大和の文化を受け入れ,ある地域は最後まで抵抗をしたものと思われます。そこには,喜怒哀楽を伴った人々のドラマがあり,古墳は悠久の時間,これらのドラマを眺めつつも,「黙して語らず」。今後も世の移ろいを眺め続けるでしょう。
  • 用語解説
  • 墳丘 墓に付属する盛土・積石などで,墓標としての性格とともに,遺体をおおう役割をもつもの。
    須恵器 古墳時代から平安時代までみられる陶質土器の総称。
    登り窯(かま)を用いて,約1,100度の還元焔(かんげんえん)によって灰青色に焼き上げる。
    埴輪 古墳の周りや上に置かれた素焼の土製品の総称。円筒形や家,動物,人などの形をしたものがある。
    伽耶 紀元4世紀頃,朝鮮半島の南部に群拠した小国家群。
    連合体をなしながらも一国にまとまることなく,新羅に征服され滅亡する。
    竪穴式石室 古墳の埋葬施設の一種。棺(ひつぎ)を設置したのち,四方に扁平な割石を小口積みにして壁を築き,その上に天井石をのせ閉鎖する。
    短甲 胴部分のみを防御するための鉄で出来た甲(よろい)
  • (文責)大保 秀樹