考古ガイダンス第30回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第30回 考古学と周辺科学 - ■土は情報の宝庫■
日本最古最大級の定住集落が発見された上野原台地では,実にさまざまなものが出土しました。台地の南側で発掘された大量の土器の中には,縄文時代の早い時期としては珍しい壺(つぼ)形の完全な土器もあります。
ほかにも土偶(どぐう),矢じり,石斧(いしおの)などや赤く塗られた耳飾りも出土しています。これらはクワや移植ゴテ・竹ベラ等を用いて掘り出したものです。
【写真 壷の謎に科学の眼で迫る!?(上野原遺跡 霧島市)】
- 遺跡によっては掘った土をフルイにかけることがあります。すると細かな石器やそれを作った際のかけらが見つかることがあります。そのままでは気付かれずに捨てられてしまったものが,細かな目のフルイにかけることで発見できるのです。その目をもっと細かくしたらどうでしょう。ルーペや顕微鏡で,もっと細かく土の中を調べてみたらどうでしょう。土は情報の宝庫なのです。
- ■ミクロの考古学■
それでは,実際に遺跡の土の中にどのようなものが含まれ,それからどんなことがわかるのか,ミクロの旅に御案内しましょう。体を縮めて小さな小さなミクロの人間になって土の中にもぐり込むと・・・。
『よいしょよいしょ。さっきまで砂粒だったのに,ミクロになると大きな岩だな。
すき間は狭いから気をつけて。- 【写真 弥生時代の地層から検出されたイネのプラントオパール(上野原遺跡)】
- おや茶色の丸いものが見えてきたぞ。大きな木の実みたいだな。その奥には,きれいな緑色に光るものもある。あっ痛い,白く尖ったものがあったぞ。なんだこりゃ,マンモスの牙かな。こっちにはガラスのかけらみたいなのがあるぞ・・・』
さてこれらは一体何でしょう。実際には遺跡の土を水に溶かし,上澄み液をガーゼで漉(こ)すと,土の中のごく小さなものも取り出すことができます。これらをルーペや顕微鏡で調べるのです。
大きな木の実に見えたのは1ミリ程のヒエの種子,緑色に光るのはコガネムシの死骸,マンモスの牙と思ったものは小さな魚の骨。ほかにも花粉やケイソウの化石(プラントオパ-ル)などが見つかることもあります。ほんとうにいろいろなものが残っていて驚きます。- 【写真 平安時代の地層から出土した「ノコギリクワガタ」の頭部(小倉畑遺跡 姶良町)】
- それらの植物や甲虫の種類を調べ,どんな気候で生育しどんな環境を好むのかということから,当時の気候や環境などが推定できるのです。例えば愛知県の勝川遺跡では,弥生時代の地層からイネネクイハムシというイネの根を食べる甲虫の羽が見つかっています。
このことから稲作栽培開始直後の弥生時代に,すでに害虫の被害も始まっていたことがわかります。弥生人もさぞ困っていたでしょう。 - しかし鹿児島の場合,ほとんどの遺跡が火山灰に覆われている酸性土壌です。そのことが災いして残念ながらこれら古い時代の植物や骨などは腐ってしまってその痕跡すら判断できません。そこで活躍するのが最後に出てきたプラントオパールとよばれる植物の特殊な細胞です。
これはガラス質のため腐ることはありません。また人間の指紋のように,植物の種類によってそれぞれが特徴ある形をしています。そこで,遺跡の地層に含まれるその種類や量を調べることで,当時どんな植物がどのくらい生えていたかを推定できるのです。
上野原遺跡の分析の結果によると,集落が発見された約9,500年前の地層からはクマザサやブナ・コナラなどの落葉樹の類が多く見つかり,冷涼な気候だったと推定されます。また壷形土器や耳飾りなどが発見された約7,500年前の層からは,クスノキなどの照葉樹のものが多く,温暖な気候になっていたと推定されています。 - ■古代に挑む文化財科学■
このようなミクロの探検隊の強力な武器として,県立埋蔵文化財センターには電子顕微鏡が備えられています。土器に残された稲のモミの跡や,火山灰に含まれている火山ガラス,石器に残された細かな傷あとの観察などに用いられています。成分の分析もでき,古代に使われた赤い色(ベンガラや水銀朱)の分析などに活躍しています。
- 【写真 電子顕微鏡でミクロの世界へ(埋蔵文化財センター 精密分析室)】
- ほかにも最新の科学技術を応用して,古代の生活を解明する試みが文化財科学という学問分野として発展しつつあります。今後各分野の研究が進み,その成果と知恵を集めれば,もっともっといろいろなことがわかってくるでしょう。未来の発掘調査では,掘り出されたすべての土を分析機械に通すことになるかもしれません。
- ここで上野原遺跡の壷の中ものぞいてみましょう。壷の中には何が入っていたのでしょうか。壷の用途は何だったのか,壷の中の土で脂肪酸分析(しぼうさんぶんせき)やリン酸分析を行いましたが,骨などの分析結果は出ませんでした。
将来,科学が進歩して新しい分析法が開発されたとき,謎は解けるかもしれません。しかし「全部わかってしまったんじゃ,古代のロマンがなくなっちゃうよ」と,上野原縄文人の笑い声が聞こえてくるようです。 - ■保存処理の必要性■
発掘調査で出土する遺物には土器や石器だけでなく,木器や金属器とその材質は様々です。本県ではこれまで木器や金属器の出土例は少なかったのですが,近年の発掘調査で増加しつつあります。
例えば川内市楠元遺跡からは木製の農具や建築材,あるいは鹿屋市根木原遺跡からは鉄剣や鉄鏃(てつぞく)などが出土しています。
- 【写真 慎重に鉄の剣のサビを取る(埋蔵文化財センター 鉄器処理室)】
- しかしながらこのような木器や金属器は,このまま放置しておくとサビついたり腐ったりして,原形をとどめないくらいにボロボロに劣化してしまいます。これら貴重な文化財を化学的処理によって遺物の価値を保ち,後世に伝えるように保存活用するのが保存科学という分野です。
- ■後世に残すために■
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サビに覆われた鉄製品
X線写真
鉄剣などはサビ取り後,その原因となる塩化物イオンを除去する脱塩処理を施し,樹脂(じゅし)で強化したり,必要に応じて欠けた部分を補ったりします。博物館で展示してある遺物は,このような保存処理が施されているのです。 - 【※上写真 X線写真からサビの塊は「鈴」と判明,サビ取りの結果鈴は古代の音色を奏でた】
- 保存科学という言葉が使われ始めたのは,30年にも満たないごく最近のことです。当初は技術的にも未熟で,サビをペンチで強引に除去して鉄器そのものを傷つけたり,木製品が腐らないようにと有害なホルマリン溶液に浸したりしてと,現在では考えられないような処理がなされていました。
- 遺物を後世に残すための試行錯誤は,保存科学の分野が確立した今でも続けられています。再処理可能な薬品の使用や技術の開発,自然や人体に害のない薬品や設備への切替え等の改良・改善を重ねながら,日々成長し進歩しているのです。
- (文責)大久保 浩二・鷲尾 史子
考古ガイダンス第29回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第29回 400年の歳月を超えて - ■白薩摩・黒薩摩■
苗代川系
2 串木野窯(1599)
3 元屋敷窯(1605)
4 堂平窯(1624)
4 五本松窯(1669)堅野系
5 竪野・冷水窯(1620)
7 宇都窯(1601)
平佐系
1 脇本窯(1776)龍門寺系
8 山元窯(1667)
西餅田系
6 元立院窯(1663)- 薩摩焼の歴史は今から400年前に遡ります。文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)(1592~1598年)の際,島津家の17代当主・島津義弘(しまづよしひろ)公が,朝鮮の文化や産業技術の導入を図る目的で朝鮮人陶工を連れ帰りました。陶工たちは,鹿児島前之浜や東市来神之川,串木野島平それに加世田小湊に上陸し,慶長4(1599)年に,朴平意(ぼくへいい)が串木野で最初の窯を開きました。
その後,陶工たちの移動により,各地で窯が開かれていきました。帖佐(姶良町)で金海(きんかい)が開いた宇都(うと)窯や鹿児島城下の冷水(ひやみず)窯・長田(ながた)窯などに代表される竪野(たての)系や,朴平意らが苗代川(なえしろがわ)(東市来町美山)に移った後に開いた元屋敷(もとやしき)窯,堂平(どびら)窯,五本松(ごほんまつ)窯に代表される苗代川系。他にも,龍門司(りゅうもんじ)系,西餅田(にしもちだ)系,平佐(ひらさ)系の5つに分類されます。
慶応3(1867)年のパリ,明治6(1873)年のウィーンでの万国博覧会において,精巧で華麗な薩摩焼は一躍世界的に有名になりました。その後,朝鮮半島から伝わった陶磁器の技法は,幾世代にも引き継がれて,現在のように花開きました。 - ■堂平窯跡の調査
平成10年,薩摩焼400年祭が開催されたまさにその年の10月,東市来町美山で,17世紀前半の薩摩焼の古窯(こよう),堂平窯跡が調査されました。
この窯は,陶工たちが串木野から苗代川(美山)に移り住んで,元屋敷窯に次いで開窯(かいよう)したものといわれています。発掘調査は南九州西回り自動車道の建設に伴うもので県立埋蔵文化財センターが8月から実施しました。
その結果,窯は丘陵(きゅうりょう)の西側斜面につくられており,長さが約30メートル,幅が約1.2メートルあり,断面の形が半円筒形(はんえんとうけい)をした焼成室(しょうせいしつ)が1つだけの「朝鮮式単室傾斜窯(ちょうせんしきたんしつけいしゃがま)」とよばれるものであることが判明しました。- 【写真 堂平窯跡の発掘調査】
- この時期,他の地域では焼成室が複数で,階段状になった「肥前式連房式登り窯(ひぜんしきれんぼうしきのぼりがま)」に変わっており,薩摩焼に朝鮮半島の影響が残っていたことを示す窯でもあります。
- 窯の南側には物原(ものはら)も発見され,そこから甕(かめ)や壺(つぼ),猪牙(ちょか)などの黒薩摩の破片に混じって,当時,一般の人たちがあまり使うことのなかった白薩摩の皿(さら)や碗(わん)なども出土しました。また,円盤や馬のひづめの形をした窯道具も出土しており,焼き方や窯の形状を知る手がかりとなりました。
さらに,鶴丸城(鹿児島城)で使われたと考えられる軒丸瓦(のきまるがわら)や軒平(のきひら)瓦も出土し,その建築にも関わりのある窯であることもわかりました。このように,薩摩焼を研究していく上で貴重な資料となった堂平窯は,東市来町や美山薩摩焼振興会からの強い要望により移設保存が決まり,美山陶遊館の裏手にある公園に移設し,復元されています。 - ■薩摩焼の古窯の広がり■
- 窯道具のいろいろ
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< 焼台 > < 匣鉢 > 馬のひづめの形 鼓形 円盤形
上から
見ると
下から
見ると
窯の斜面に置くと
上が水平になる
匣鉢の中に
入れて焼く - 薩摩焼の古窯は,県内各地に広がっています。堂平窯のような単室傾斜窯に対して,連房式登り窯が発見された例の一つが,元和6(1620)年に開窯された竪野(たての)・冷水(ひやみず)窯跡です。
この窯跡は,病院の女子寮建設に伴って,昭和51年に発掘調査が行われました。窯跡は南面する傾斜地にあり,全長約14メートルで,焼成室が7室ありました。2か所の物原から碗や皿,茶入(ちゃいれ)などの白薩摩が多く見つかり藩の御用窯であったことがわかりました。
一方,黒薩摩を中心に庶民の生活に密着した陶器作りを行った龍門司系の初期の窯跡として,寛文(かんぶん)7(1667)年に開窯された山元(やまもと)窯跡があります。昭和41年に加治木町の指定文化財となりましたが,平成4年に範囲の再確認を目的に発掘調査が行われました。全長は推定で約14メートル,7室以上の焼成室をもち,約20センチ掘り下げた半地下式の登り窯と,その窯を覆っていた建物の柱穴,近くの滝から導水したと思われる配水溝も発見されました。
また,寛文3(1663)年に開かれた民陶の窯である西餅田系元立院(にしもちだけいげんりゅういん)窯跡は,平成7年に発掘調査が行われ,遺構は確認できなかったものの,この地域が「壺屋」(つぼや)と呼ばれていたことや,窯壁(ようへき)を作るときに用いられるトンバイ(レンガ)などが発見されたことから,窯があったのは確実と考えられます。
薩摩焼の系統の中で,磁器を本格的に製造したのが平佐系の諸窯であり,その中で最初に開窯されたのが,安永(あんえい)5(1776)年の脇本窯です。昭和47年の発掘調査で,全長約20メートル,焼成室4室の連房式登り窯が見つかっています。窯や窯道具,焼かれた碗・皿などの発見により,藩における磁器生産の一端が明らかにされ,意義深いものがあります。 - 以上のように,県内各地の薩摩焼古窯の発掘調査によって,その歴史が少しずつ解明されています。薩摩焼と一口に言っても,ここに紹介した古窯だけでも構造や目的,製品などが多種多様であることがわかり,そこからそれぞれの地での陶工たちの姿や思いが伝わり,薩摩焼400年の奥深さを感じ取ることができます。
しかし県内には,埋もれたままの窯がまだ多く残っています。400年という歳月を越え,薩摩焼が歩んできた歴史を調査研究する機会が待たれるところです。 - 用語解説
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文禄・慶長の役 二度にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略のことをいう 古窯 昔作られた古い窯 焼成室 器物を焼く部屋のことで,窯は,この焼成室(部)と燃焼室(部)からなる 物原 失敗作などを捨てた場所 窯道具 碗や壺などの器物を窯に入れ焼くときに使う道具で,匣鉢(さやばち・耐火粘土製の容器)や焼台などがある 御用窯 藩の運営によって作られている窯 民陶 主に一般大衆向けの実用品 窯壁 窯のかべのこと - (文責)西郷 吉郎
考古ガイダンス第28回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第28回 鹿児島県の発掘の歴史 - ■先駆者の研究の功績■
埋蔵文化財の発掘調査は,学問上は考古学の分野に属しています。そして,最近の鹿児島県の先史学の研究は,これら考古学分野である埋蔵文化財の発掘調査の成果によって大きく前進してきました。それらは,これまでの先駆者の研究の功績であることを決して忘れてはなりません。
日本列島の最南端に位置する鹿児島県の考古学研究は,他の地域に比べてそれほど進んだ地域ではありませんでした。しかし,すでに江戸時代の終り頃には,薩摩藩主島津重豪(しげひで)のもとで活躍した国学者の白尾国柱(しらおくにばしら)氏は「神代山陵考(しんだいさんりょうこう)」など数多い鹿児島藩の歴史を編纂(へんさん)しています。- 【写真 故・寺師見國先生(1955年ころ)】
- その中に考古学的な調査や論攷(ろんこう)がみられる点は注目に値します。まさに「本県における考古学研究の開祖」ともいえる業績を残した人です。
大正になると「鹿児島県考古学の開拓者」と呼ばれた山崎五十麿(いそまろ)氏などによって県内の遺跡は中央の学界に紹介されています。その結果,京都帝国大学(現京都大学)などによる橋牟礼川(はしむれがわ)遺跡(指宿市)や出水(いずみ)貝塚(出水市)などの本格的な学術発掘調査を導く形となりました。
【写真 故・木村幹夫先生(1960年ころ)】
昭和の初めには,早稲田大学を卒業し中央の学風をもった木村幹夫氏(旧制大口中学校)により,教職のかたわらの大口盆地を中心とした考古学研究が進められました。大口に赴任した昭和5年から香川県に転任する昭和14年までの9年間,県内各地の遺跡調査を手がけ,教科書的役割を果たす多くの論文を発表しました。彼が「鹿児島県考古学研究の創始者」と呼ばれるゆえんです。 - 木村氏に啓発され,戦前から戦後を通じて「全般にわたって鹿児島県考古学研究の基礎を創った人」に寺師見國(てらしみくに)氏(医師)がいます。氏の科学的な精神をもった研究は,今でも南九州の考古学研究の基礎となっています。
さらに昭和30年代以降,数々の新しい遺跡を発掘し,多くの研究論文を著し,鹿児島県考古学会を現在のレベルに引き上げたのは河口貞徳(かわぐちさだのり)(現鹿児島県考古学会会長)氏です。現在,発掘調査に従事する担当者のほとんどは,多くの教訓を氏から受けています。
昭和55年には,鹿児島大学にも上村俊雄(かみむらとしお)教授を中心に考古学研究室が開設され,多くの考古学徒を誕生させています。- 【写真 橋牟礼川遺跡(指宿市)】
- 昭和40年代になると,高度成長と日本列島改造論などによる大型開発の荒波が全国に波及しました。その結果,大型開発と遺跡の保護が大きな課題となり,各地方自治体に発掘調査を担当する組織が置かれるようになりました。
- 鹿児島県教育委員会では,昭和47年に文化室が,昭和48年には文化課が設置されました。その後,県内の国・県関係の発掘調査は,文化課(現文化財課)で実施されています。その後,平成4年には鹿児島県立埋蔵文化財センターが設置され,発掘調査と啓発・普及はここで担当しています。
時を同じくして,県内の市町村でも発掘調査担当者が置かれ,現在,各市町村独自の発掘調査も行われています。 - ■鹿児島県の特異性■
日本の縄文文化観の転換に迫る大発見!
最近の鹿児島県の旧石器時代から縄文時代の発掘調査の成果はすさまじく,まさに日本の縄文文化観の転換に迫る勢いです。県内各地で発掘調査された遺跡をみると,氷河期の旧石器時代から温暖化を迎えて誕生した縄文時代は,日本列島の最南端の鹿児島に花ひらいたと言っても過言ではありません。- 【写真 上野原遺跡発見当初,大勢訪れた見学者(平成9年6月1日)】
- 平成9年5月26日,霧島市に所在する上野原遺跡(4工区)から「約9,500年前の縄文時代の定住化した国内最古で最大級の集落跡」が発見されて以来,鹿児島県内からこの時期前後の縄文遺跡が続々と発見されています。このような日本人の定住の先駆けを裏付ける鹿児島の縄文遺跡の発見は,全国的に大きな反響を巻き起しました。
- まず,鹿児島の縄文文化の先進性を語る遺跡の発見の足取りを追いかけると,平成2年に始まった鹿児島市教育委員会での発掘調査の掃除山(そうじやま)遺跡(鹿児島市)に遡ります。
掃除山遺跡では,桜島ができたとされる薩摩火山灰(約1万1,500年前)層の下から,大量の遺物とともに2軒の竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)や屋外炉(おくがいろ)や蒸し焼き調理場(集石=しゅうせき)や燻製(くんせい)施設(炉穴=ろあな)など種々の調理場の整った集落が発見されました。旧石器時代が終り,縄文時代が始まった直後の鹿児島の地には,すでに定住のきざしが見える集落が誕生していたことが判明したのです。
その直後の平成4年に加世田市教育委員会で発掘調査された栫ノ原(かこいのはら)遺跡(加世田市)からは,竪穴住居跡こそ無いものの大量の遺物とともに屋外炉や集石や炉穴など,掃除山遺跡と同様な調理場施設を備えた集落が発見されました。そして,栫ノ原遺跡は,平成9年に国の史跡に指定されました。さらに平成5年には,種子島の西之表市教育委員会が発掘調査した奥ノ仁田(おくのにた)遺跡(西之表市)からも同様な縄文時代草創期(そうそうき)の遺跡が発見され,種子島を含めた南九州一帯に先進的な縄文文化が拡がっていたことが実証されるにいたったのです。 その間,平成3年から始まった上野原遺跡(3工区)の発掘調査では,平成5年10月に西日本では最古となる「土偶(どぐう)」の発見,平成6年3月には完全な形の2個の埋納された壺(つぼ)形土器(高さ46cmと52cm)が発見されました。その他,上野原遺跡(3工区)では土製や石製の耳飾りや実用品とは考えられない特殊な石製品(異形石器=いけいせっき)なども出土し,鹿児島県の早期後半(約7,500年前)の豊かな縄文文化の実態が全国の考古学者の注目の的となりました。
これまで,九州の土偶の最古のものは縄文時代後期であり,壺形土器の出現は稲作文化を迎えた弥生時代とされ,耳栓(じせん)と呼ばれる耳飾りは日本列島では縄文時代後期の産物とされており,いずれもはるかに新しい時期のものでした。- 【写真 7,500年前の壺型土器(上野原遺跡)】
- そして,極めつけは,平成7年から始まった上野原遺跡(4工区)の発掘調査でした。平成9年に判明した「日本で最古の縄文ムラ」は竪穴住居跡52軒,連穴土坑(れんけつどこう)16基,集石39基,土坑約260基,道跡2筋を備えた集落跡でした。
- さらに,竪穴住居跡52軒のうち10軒の住居跡の埋土に,桜島の約9,500年前の火山灰が堆積していたことから,同時期に10軒程度の住居で集落(ムラ)をつくっていたことが判明しました。住居跡の作られた時期が特定されたことと,一時期の住居跡の軒数が特定されたことは,当時の縄文集落を知るうえで大きな成果となりました。
1999年には旧石器時代終末の集落の様相を知る水迫(みずさこ)遺跡(指宿市)が指宿市教育委員会の発掘調査で発見されました。旧石器時代の終り頃の南九州の様子が判明してきています。
このように,これまでの発掘調査の成果により,旧石器時代の終り頃から縄文時代初め頃の南九州の実態が明瞭になってきました。これまでの日本列島に比較すると,これらの成果は異常に先進的であり,成熟した文化と評価されています。まさに日本の縄文観の転換に迫る発見であり,南九州の縄文文化の充実ぶりや特異性が判明してきました。
今,南九州は縄文時代の始まりが最も注目されていますが,縄文時代以外でもこのような特異性をもつ文化がたくさん存在しています。 - 用語解説
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竪穴住居跡 穴を掘って,その上に屋根をつけた半地下式の住居跡 屋外炉 屋外の調理用の炉の跡 炉穴 連穴土坑と同じで最初に発見された関東地方での呼び名 土偶 粘土で作った人の形をしたもの 異形石器 ていねいに作られた実用的でない石器 耳栓 耳たぶに穴をあけてはめ込んで着ける耳飾り 連穴土坑 二つの穴が連なった土坑で燻製つくりの施設と考えられる 集石 焼けたこぶし大の石が集まったところ・蒸し焼きの調理場 土坑 何に使ったか分からない穴 - (文責)新東 晃一
考古ガイダンス第27回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第27回 発掘が語る“道”の跡 - 発掘を進めていると,土が周囲の色と異なっていたり,部分的に硬くなった筋を見つけることがあります。一本の蛇行した小川のように見えるものもあれば,いくつかの枝に分かれ,それぞれがさまざまな方向に伸びていくものもあります。
その筋の意味を特定することは難しいです。長い年月の間に自然が作り出したものであるかもしれません。しかしそれが人の歩いた跡,すなわち道の跡だと分かると,にわかに話はおもしろくなってきます。
道は,人々が生活する中で,自然に,あるいは意図的に作られるものです。人が地面を踏みしめながら歩くことで道が出来ます。歩く先には水場や食料があるのかもしれません。誰かに何かを運ぶ途中なのかもしれません。何かを捨てにいくのかもしれません。あるいは,死者を葬った場所への道なのかもしれません。道の跡には,それを作った人々の生活を知るための重要な情報が刻まれているのです。
県内の遺跡からは多くの道の跡が見つかっており,近年では,縄文時代早期という早い時期の道の跡が集落との関わりで発見され注目されています。
すなわち,住居跡などの遺構(いこう)や土器などの遺物(いぶつ),地形や周囲の様子などと道の跡との関係を捉えながら調査を進めることで,我々ははるか昔に生きた人々の生活の様子を知ることができるのです。 - ■旧石器・縄文時代の道■
この時代は,狩猟・採集を中心とした社会を営んでいた時期であり,自然発生的な道が作られていったと考えられています。
上野原遺跡(霧島市)
9,500年前の大規模な集落跡が国指定の史跡となっている上野原遺跡では,住居の間をぬうように道の跡が発見されています。
- 【図 上野原遺跡のイメージ図 (縄文時代早期 9,500年前)】
- 現在でも上野原台地の周辺には,湧水(=わき水)地点がいくつか確認されており,もっとも近い湧水は,遺跡から徒歩で約10分,標高にして約30mほど下がった所にあります。
道の跡は概ね南北に黒い筋状に伸び,まるで湧水地点への通路のようにもみえます。このような道は自然の浅い谷を利用して作られたものだと考えられています。 水迫遺跡(指宿市)
旧石器時代の集落跡が発見されたとしてマスコミをにぎわせた遺跡です。
道の跡は,遺跡の南側斜面から約1万5,000年前の竪穴住居2基とともに見つかっています。南北12m,最大幅約1mで住居跡に近く,浅い谷状で3本に枝分かれしています。
踏み分け道の痕跡があり,人が何度も地面を踏みしめた(歩いた?)可能性が高いと思われます。
- 前原(まえばる)遺跡(鹿児島市[旧日置郡松元町])
道の跡は,標高約180mの舌状台地の先端近くにある縄文時代早期前半の集落跡とともに見つかりました。
B地区とよばれる場所で見つかった竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)は9軒・2軒・1軒の3群に分かれており,道は相反する2つの谷に向いたかたちでそれぞれ9軒と2軒の群に続いていました。
建石ヶ原(たていしがはら)遺跡(日置市[旧日置郡吹上町])
道の跡は,国道270号線沿いの縄文時代晩期・古代の遺跡から見つかりました。縄文時代晩期のものは,幅約2mで,緩くカーブしながら南北に150m以上もの長さに伸びていました。今から約2,800年前にこのような大がかりな道が造られていたということは驚きです。 -
建石ヶ原遺跡の航空写真
左の拡大写真
(白い2本の線で囲まれた筋状のものが道の跡) - ■弥生時代の道■
- この時期になると農耕の普及などによって政治的・経済的な社会が発達してきます。しかしながら,明確な交通路としての道はほとんどみられません。
魚見ヶ原(うおみがはら)遺跡(鹿児島市)
道の跡は,鹿児島市街地を見下ろす標高約60mのシラス台地上に位置した弥生時代前期後半から中期前半にかけての集落跡とともに見つかりました。
4基の竪穴住居跡,食料の貯蔵用や墓と推定される土坑(どこう)など,多数の遺構とともに,谷筋に幅約70cmの硬化面(地面を何度も踏むことで出来た硬くなった土の部分)が約20mの長さで続いていました。集落と低地とを結ぶ道の存在が判明したことなどから,縄文時代から弥生時代へ移り変わる当時の南九州の様子を探る上での重要な資料となっています。 - ■古代の道■
- 時代が新しくなるにつれて,道はより重要性を増すことになります。生活のための道という面に加えて,より政治的・経済的な役割が大きくなり,中央と地方,あるいは地方の重要な交通路としての道が整備されるようになりました。
駅制
古代の律令制には「駅制(えきせい)」が登場します。
駅鈴(えきれい)を携えた公使(こうし)は,駅路(えきろ)を通り,駅(えき)ごとに常備された駅馬(えきば)を乗り継いで情報の伝達を行いました。同時に駅の周辺の村落も発達していきました。
貞観16年(874年)の開聞岳の大爆発が太宰府に速やかに報告されたのもこのような駅路を利用したものだと考えられています。
この駅制は平安時代の初頭頃まで改廃・新設されながら続いていきました。
鹿児島においては,大隅国駅馬,薩摩国駅馬,薩摩国伝馬,官道などがありますが,それぞれの正確な位置等については今後の詳細な調査と分析が必要です。
道を行き来した人々を思い描きながら調査を進めることは,発掘に関わる我々の大きな楽しみのひとつです。 - 用語解説
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竪穴住居 穴を掘って,その上に屋根をつけた半地下式の住居跡 駅鈴 駅馬の徴発などに使用した鈴 - (文責)高見 憲次・宇都 俊一
考古ガイダンス第26回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第26回 島津の殿様の生活 - ■寛永年間,鹿児島城の縄張り完成■
現在,鹿児島県歴史資料センター黎明館及び県立図書館となっている鹿児島城は,「鶴丸城(つるまるじょう)」と呼ばれていますが,正しい名称は「鹿児島城」であり,鶴丸城という呼び方は江戸時代中期より後の時代の,美称であるとされています。
鹿児島城は,1601(慶長6)年から築城が開始され,本丸の完成が翌1602(慶長7)年です。それ以降は城内の建築物の構築とともに,甲突川の河川改修や,前之浜干潟地の埋め立てなどの土地改革が行われています。
【図 鹿児島城の縄張り (右端は海=錦江湾)】
- 城の周りには武家屋敷を,そして,その周辺には町屋敷を配置するなど,城下町も計画的に建設されています。このため,1624~43年の寛永年間中に,鹿児島城の縄張りがすべて完成したと考えられています。
計画的に作られたこれらの町並みは,一部を除いて現在までほとんど変わっていません。しかし,鹿児島城は1696(元禄9)年,1873(明治6)年と二度の火災で焼失し,石垣・堀・大手橋を残すのみとなってしまいました。 - ■鹿児島城の発掘調査■
鹿児島城の発掘調査は,明治百年記念館(現鹿児島県歴史資料センター黎明館)や県立図書館の建築の前に行われ,二之丸跡は1977(昭和52)年に,本丸跡は1978~79(昭和53~54)年に鹿児島県教育委員会が実施しました。
【写真 二之丸跡の階段と石管水道】- 鹿児島城本丸跡の発掘調査では,屋形造(やかたづくり)の建物跡,石垣,階段などが発見されました。各種文献と照らし合わせてみると,「虎之間」「御対面所」「御一門方入口」と合致すると思われます。その他,「表御書院」「奥御書院」「麒麟(きりん)之間」などの位置を把握することができました。
建物跡以外にも多くの遺構が発見されました。本丸跡で見つかった水を利用するための施設は,排水溝19条・井戸5基・雨落溝12条・池が3ヵ所・水道石管などです。
【写真 「丸に十文字」の薩摩焼(白薩摩)】- 石材は,「小野石(おのいし)」または「河頭石(こがしらいし)」と通称される溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)であるといわれています。排水溝には凝灰岩切石(きりいし)と平瓦(ひらがわら)で作られているものがありました。井戸は凝灰岩切石が用いられています。これらの遺構は,地表に現れている部分を丁寧に整形し溝幅をそろえるなど,景観を損なうことがないよう配慮されています。
- 二之丸跡でも同様の遺構が確認されました。排水溝21条・水道管・石垣・濠・水門・水槽・倉の石畳ほか,建物跡・社殿跡・門跡なども発見されました。
遺物は,本丸・二之丸ともに共通していました。白薩摩・黒薩摩の各種薩摩焼などの陶磁器類や土師質土器(はじしつどき)が見つかりました。碗(わん)・皿を中心として甕(かめ)・鉢・高坏(たかつき)・猪口(ちょこ)・香炉・盤(ばん)・灯明皿(とうみょうざら)などです。中には「丸に十文字」の印が書かれたものもありました。薩摩焼の他には,伊万里焼,唐津焼,琉球焼などの流入品もありました。
その他にも金属製品が出土しており,釘・古銭・刀装具・金具などの他,鏡・キセル・かんざしなどが見つかりました。 - ■外城制と麓集落■
当時,藩の中心は鹿児島城にありましたが,各地には17世紀初頭から「外城制(とじょうせい)」が施行され,領内各所に政治・経済・文化・軍事の中心となる外城が設けられていました。
これは各地に武士を配置し,「麓(ふもと)」と呼ばれる集落を形成することで防備を整え,麓集落によって支城とするものであり,領内には113の外城が形成されていました。- 【写真 鹿児島城本丸跡全景(航空写真)】
- なお外城という名称は,鹿児島城に対する外衛(がいえい)を意味するものであって,特定の城を指すものではなく区域の総称でした。
- 外城制によって形成される麓集落は,日常は居住地として使用されますが,戦時は陣地(じんち)として使用できるよう考えて作られていました。麓集落には領内から武士が配置され,政庁である地頭仮屋(じとうかりや)も置かれました。
麓集落の武士は,平時は農耕などによって自活し,非常時には地頭の指揮の下に動員される,半農半武の存在でした。麓集落の外周には町・村・浜があり,経済の中心となっていました。外城は,本来の軍事面に加えて経済・流通の面からも交通の要所に築かれることが多く,その地域が発展していく要因となりました。 - ■北の砦■
これら麓集落のなかで,代表的なものとして「出水麓(いずみふもと)」があります。
出水市では,麓歴史資料館の建設などを計画し,1993~94(平成5~6)年,1996~97(平成8~9)年に同教育委員会が出水麓遺跡の発掘調査を実施しました。
1994(平成6)年の調査では,地頭館(じとうやかた)跡と推定される地点から2軒の掘立柱(ほったてばしら)建物跡が確認され,庭園の池と思われる石組遺構・門跡・通路なども発見されました。- 【写真 出水の武家屋敷】
- 遺物は,近世の陶磁器を中心に発見されました。碗・皿・壺(つぼ)・鉢・灯明皿・徳利(とっくり)など種類が豊富でした。
1997(平成9)年の調査では地頭館跡の西側を調査し,掘立柱建物跡3軒・井戸2基・石垣などのほかに,近世の陶磁器が発見されました。 - 現在の麓地区内の道路は格子状に整然と区画され,各区画のまわりには石垣・生け垣が巡らされています。区画の中央部には畑が広く作られ,町の一区画ごとが「砦(とりで)」のような防御的性格を持った形態であり,麓集落内での軍事的性格を裏付けるものといわれています。この性格は麓集落に共通するものですが,出水麓は肥後(熊本県)に接する北辺の要地であったため,特に軍事的性格が強いと考えられます。
島津氏の居城であり薩摩藩の中心であった鹿児島城と,支城にあたる出水麓遺跡の発掘調査の成果によって,鹿児島城に対する外城の性格が確認されました。各地の外城はそれぞれが軍事・経済の拠点となり,独立性を持ちながら,藩主の住む鹿児島城によって統括されていました。薩摩藩はこの「外城制」によって,幕府に対してある程度の独立性・独自性を保っていたと考えられています。 - 用語解説
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屋形造 一階建ての建物,平屋 掘立柱建物 地面に柱穴を掘り,柱を立てる建物 - (文責)濱崎 一富・大窪 祥晃
考古ガイダンス第25回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第25回 シラスの上と下の文化 - ■姶良カルデラの大爆発を中心に■
南九州の厚く堆積したシラスの下層から石器が出土することは極めて珍しいことです。
平成7年,私は南九州西回り自動車道建設に伴って,日置郡松元町石谷の前山遺跡,現在の松元インターチェンジ付近の発掘調査を担当していました。
【写真 シラス下層出土の前山遺跡の石器群】- 夏のある日,私は次の日に他の業務があり発掘現場を留守にするため,明日の調査計画について同僚と話し合いました。その結果,明日はシラスの風化土以下の地層がどうなっているかの確認を行うことにして,その日は発掘現場を後にしました。
そして二日後に発掘現場に行くと,同僚が興奮した声で昨日の様子を話すのです。その内容は,シラスの下の地層から石器らしいものが出土したということでした。
私はわが耳を疑いながら,遺物が出土した地点へと向かいました。出土した地層を再度確認し,地層の断面を移植ゴテで削ってみました。出土した地層は,シラスの風化した地層の下の砂礫層であり,遺物を見てみると確かに人為的に石を加工した痕跡があるものでした。
それから発掘事務所へ駆け戻り,そして震える手で埋蔵文化財センターに電話で報告しました。「松元町の前山遺跡で,シラスの下層から石器が出土しました。」と。
南九州の発掘調査に従事する我々が,調査終了の目安にするのはシラスです。シラスは,南九州を厚く覆っている火山堆積物で,時には100メートル近く堆積している所もあり,物理的に発掘調査が不可能なためです。 - ■姶良カルデラとその環境■
- さて,このシラスと当時の気候について若干触れてみたいと思います。
今から約2万5,000年前,錦江湾の奥まった部分から火山活動が始まりました。その火山活動は,大量の軽石の噴出,そして第1次の火砕流を経て破局的な大火砕流をもたらしました。火山灰は,空高く成層圏まで舞い上がり,東北地方や朝鮮半島にまで及んだと言います。 - この一連の火山活動によってもたらされたものがシラスであり,専門的には姶良・丹沢火山灰あるいはATと呼ばれるものです。そしてこの大噴火がもたらしたものは,陥没した大カルデラ(姶良カルデラ)と,旧地形をとどめないほどに降り積もった火山灰にまみれ茫漠とした南九州の地であったでしょう。
姶良カルデラが噴火した2万5,000年前は,後期旧石器時代(旧石器時代とは,人類が誕生してから約1万2,000年前まで,主として石器を主な生活の道具とし,人類が土器や弓矢を発明して用い始める直前までの時代)にあたります。地質学的には更新世後期にあたり,大氷河が発達したり後退を繰り返した時代です。またこの時代は氷河が発達したことから氷河期とも呼ばれ,地球全体がとても寒い時期で,北海道にはマンモスが,九州にはナウマン象がいたといわれています。
【写真 屋久島の宮之浦岳の山頂(出典 鹿児島県育英財団)】- ただし実際に氷河が存在したのは,北極などのように寒い地域や高い山だけです。南九州は,現在より気温が数度,海面が今より百メートル近く低く,あたり一面には草原が広がっていたと考えられています(現在の屋久島の宮之浦岳の山頂の様子に似ています)。
- ■二つの石器(ナイフ型石器と剥片尖頭器)■
南九州本土において,シラスの下層から石器が出土したのは前山遺跡が2例目,昭和41年出水市上場遺跡の発見以来,実に20数年ぶりでした。当初私は,発掘風景の写真のようにこの遺跡は安山岩の巨石がゴロゴロしていたため「シラスが薄くその下の地層がもしや観察できるのではないか」と考えていました。掘り下げを行った結果が思わぬ石器の発見につながったのです。
【写真 前山遺跡の発掘風景】- 1年半に及ぶ前山遺跡の発掘調査の結果,シラスの下層から台形石器やナイフ形石器など約10点を含む約500点の石器,シラスの上層からは台形石器,ナイフ形石器,槍として用いたと思われる剥片尖頭器や三稜尖頭器などを含む約1万5,000点もの石器が出土したのです。
前述のように2万5,000年前に大爆発した姶良カルデラは,南九州の地を火砕流で覆いつくして,人間,動物や植物までも死滅させたといわれ,その植生の回復には1,000年近くもの歳月を要したといわれています。
ところが熊本県の狸谷遺跡(たぬきだにいせき)で見つかった,シラスの上層から出土したものを指標とする「狸谷型」と呼ばれるナイフ型石器は,前山遺跡のシラスの下層から出土した石器の中に類似したものが見出せるのです。長さ2,3センチで切り出しナイフの刃先に近い形状,そしてその石器の作り方も似かよっています。また狸谷型のナイフ型石器は,前山遺跡より数100メートル南東に位置する仁田尾遺跡では,シラスの上層から多数出土しているのです。
- 【写真 シラス上層出土の前山遺跡の剥片尖頭器】
- 噴火後の九州では,新たな石器として剥片尖頭器という槍状の石器が登場します。南九州でも近年数多くの遺跡からこの剥片尖頭器が出土しており,前山遺跡からも相当数出土しています。そしてこの石器は,朝鮮半島にそのルーツが求められるともいわれ「海を渡った剥片尖頭器」とも呼ばれています。
- ■エピローグ■
この南九州から出土した2つのタイプの石器(ナイフ型石器と剥片尖頭器)は,21世紀を生きるわれわれに何を物語ってくれるのでしょうか。
前山遺跡出土のシラス下層のナイフ型石器についてある研究者は「生き残った集団によって,製作技法が受け継がれていったのではないか」とし,大災害でも生き延びようとする人間の生命力をいっそう確信したとさえいいます。- 【写真 鹿児島市[旧喜入町]帖地遺跡(出典 喜入町教育委員会)】
- シラスの上層から出土する剥片尖頭器は,海水面が低くなり幅が狭くなったとはいえ海流が激しく荒ぶる朝鮮海峡を,旧石器人達が勇敢に丸木舟を操って行き来したあかしなのでしょうか。
数少ない遺跡から出土する数点の遺物だけで早急に結果を導き出すことは,非常に危険ですが(考古学は,実証とデータ―の蓄積が大事である),前山遺跡のシラスの上層から出土した剥片尖頭器と下層から出土したナイフ型石器が,今後の南九州の姶良カルデラ爆発前後の様相を知る大きな手がかりになりうることは確かです。
そしてその後,1996年1月に喜入町帖地遺跡からもシラスの上層と下層から数多くの石器が発見されました。この新たな資料の追加の意義は大きいものがあります。今後もこのような遺跡や遺物が発見され,南九州の旧石器文化がよりいっそう解明されることを期待してエピローグにかえたいと思います。 - (文責)鶴田 静彦
考古ガイダンス第24回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第24回 縄文文化は海を越えて - ■北から南へ・海峡を南下した細石器文化■
縄文時代開始直前の約14,000年前,日本列島には細石器文化が大盛行していました。鹿児島もその例にもれず,細石器文化の真只中にありました。特に鹿児島・宮崎・大分を含む南・東九州では在地の流紋岩(りゅうもんがん)という石を利用した特徴的な船野型(ふなのがた)という槍先の製作技術が存在することが知られ,その分布の南限は鹿児島県本土までとされていました。
そんな中,1997年,中種子町立切(たちきり)遺跡で本土と種子島との交流を示す驚くべき発見がありました。種子島で初めて細石器文化期の遺物が発見されたのです。しかも石材は南九州で産出する流紋岩,槍先を作る技術も九州本土に特徴的な船野型であったのです。この発見により,細石器文化の南限を書き換えるとともに,本土と種子島の技術・物資・人間の南への流通が明らかとなり,さらに大隅海峡を南下するための船の存在が確定的となったのです。
丸木舟に乗って流紋岩を大事そうに抱え,海峡を南下した旧石器人の姿が目に浮かんでくるようです。- ■南から北へ・海峡を北上した「磨き」の技術■
- 1995年に調査された西之表市の奥ノ仁田遺跡,中種子町三角山遺跡では縄文時代草創期(約12,000年前)の磨製石鏃(ませいせきぞく)が発見されています。これらは種子島に安定して磨製石鏃を作る技術が存在していたことをうかがわせるものです。
一方,鹿児島県本土に目を向けてみると,磨製石鏃の出現は種子島より一時期遅れた縄文時代早期初頭(約10,000年前)まで待たねばなりません。なお,日本全国を見渡すと縄文時代の最初の時期に磨製石鏃を生み出す技術を保有しているのは南九州しか見当たらず,鹿児島県本土に石鏃を磨く技術をもたらしたのは現在のところ種子島しか考えられません。この事実は南から北への技術の北上を示すことに他ならなく,北から南だけでなく南から北への動きがあったことをうかがわせるものです。 - ■北から?南から?土器文化の交流■
- 縄文時代草創期には,全国的に土器の周りに粘土紐を貼り付けてつくる隆起線文土器が特徴的に使用されていました。中でも南九州の粘土紐は他地域よりひときわ太く,隆帯文土器と呼ばれています。また,貼り巡らした粘土紐には貝殻や指などで模様が施され,この特徴は県本土も種子島もほぼ同じです。
では,この隆帯文土器は南北どちらから伝わったのでしょうか。分布からみると,現在のところ県本土よりも種子島に密度が濃く,出土量も多いため,種子島からの伝播の方が考えやすいです。しかし種子島よりも南では隆帯文土器の出土は見られず,南からの伝播を考えにくい逆の状況も存在します。また,その他にも種子島の隆帯文土器の密度の濃さを説明する学説もあります。それは種子島では次の文化が流入するまでの間ずっと隆帯文土器を使用し続けた結果であるというものです。いずれにせよこの問題の解答は,今後の発掘調査による成果をを待たねばならないようです。 - ■槍はどこから?中種子町園田遺跡■
- 1999年10月,種子島で縄文時代草創期の地層から8本の石槍が発見されました。槍は意図的に23個のパーツに分割され,折り重なるような状態で2ヵ所から発見されました。石材は安山岩で,種子島では産出しないものであり,石器を製作した痕跡も残していないことから島外で製作され,持ち込まれたものであると考えられています。その出土状況,石材,槍の形状の類似から,信州を中心に分布する神子柴(みこしば)文化との関係を論じられることもあります。
しかし神子柴文化の石槍とは厳密には技術・形態など異なっており,間接的な影響は考えられるものの,直接的に信州との交流を語れるものではありません。広くアジアを見渡しても現在のところ園田遺跡のような精美な槍,またそれを作り出す技術は見当たらず,園田遺跡の槍がどこで製作され,どのようなルートで種子島にたどり着き,そしてまたなぜ分割され,置かれたのかは謎です。 - 用語解説
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船野型 宮崎県船野遺跡で最初に発見された槍先の製作技術。石核の形が船底状を呈するのが特徴。 神子柴文化 長野県神子柴遺跡を標識とする。北海道を除く東九州を中心に広がっており,九州への波及も部分的に認められている。独特の形の槍や石斧を特徴とする文化。 - (文責)桑波田 武志
考古ガイダンス第23回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第23回 大隅諸島・南西諸島の旧石器時代文化 - ■日本列島の旧石器文化の系譜を考える■
- 1967年に沖縄で旧石器時代の港川人の化石人骨が発掘されましたが,石器は確認されていません。したがって、港川人の文化はいまだに不詳です。次に,沖縄につながる大隅・奄美諸島に旧石器が出土するようになったのはつい最近のことです。1986年の奄美大島の土浜ヤーヤー遺跡の発掘調査などに始まり、1990年代になると幾つもの遺跡で旧石器が発見されるようになりました。それは日本列島の文化の起源にもかかわることで、注目すべき問題です。
- ■種子島の三万年を超える遺跡■
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礫器
敲石 - 種子島の横峯C遺跡では1992年の発掘調査で縄文時代早期層の1.2m下の地層から偶然にも礫群が発見され,その中の炭を年代測定した結果,3万年を超える「日本最古の礫群」として全国的に報道されました。これより種子島では,AT火山灰よりさらに下の種4火山灰といわれる火山灰層の下部が発掘調査対象となり,立切遺跡の発見へとつながりました。立切遺跡は1997年に農道を整備したときに発掘調査され,日本で「最古の生活跡」として全国的な話題となりました。調理に使われたと考えられている礫群が1基,食べ物や石器などを貯蔵したと考えられる土坑が2基,たき火などした焼土が14ヵ所検出されました。
横峯遺跡は種4火山灰を挟んで上下に礫群があり,AT火山灰直上で土坑が検出されました。いずれも旧石器時代のもので,AT下位で2枚,AT上位で1枚の3文化層が存在しています。また種3火山灰と種4火山灰の間からは敲石が出土し,種4火山灰とAT火山灰の間では台石・敲石・磨石・礫器などが出土しています。さらに種4火山灰の下から,多数の磨石・砥石のほかに局部磨製石斧・打製石斧・スクレイパーなど他の石器も少数出土しています。 種4火山灰の年代は放射性炭素年代測定の結果3万5,000年前ぐらいとされ,そのさらに約10cmほど下位にあたる横峯遺跡や立切遺跡は,確実に3万1,000年より古いと考えられます。
種4火山灰の上下の文化層の石器群は,いまのところ種4火山灰を挟んで共通の石器群をもつと考えられます。石材はすべて島内のものでした。敲石や磨石がたくさん出土したことから,植物食を中心としたライフスタイルが想定されています。- 【写真 横峯C遺跡の礫群】
しかし石器の材料を剥ぎ取ったあとの石をそのまま石器として利用していることから,ナイフ形石器のような剥片石器類が存在するとも考えられます。石器に使える良質の石材の石核は,持ち歩いて必要に応じて剥離作業をおこなったものと思われます。
【写真 立切遺跡の土坑】- 礫群は当時の集団の人々のつながりを確認するために,季節的に集まっては調理と分配を行った施設とする説があります。横峯C遺跡と立切遺跡は,石器を製作する遺跡,礫群のある遺跡,狩猟をおこなうキャンプサイトなど,移動する遊動パターンの一つとみられています。
- 横峯C遺跡や立切遺跡の種4火山灰の上下の旧石器時代文化層では,土の中の植物珪酸体分析や炭化材の樹種同定の結果,最終氷期を通して照葉樹林が分布していたといわれています。氷河期のなかでも暖かかったということです。
種子島の石器文化は,日本列島と異質の文化であるとの考えから「南西諸島文化圏」を唱える人がいます。あるいは「南方型旧石器文化」として関東の石器群にもその系譜が認められるとする説も唱えられています。長い期間に及んだ旧石器時代は,多様な環境変化が起こった時代でしたが,過去には狩猟中心のイメージが先行していました。そうした旧石器時代観のイメージを種子島の石器文化が転換させた意義は大きいものがあります。藤本強氏(新潟大学教授)は,立切遺跡をはじめとする南九州の様相は,地球規模で旧石器時代の生業を考える際に重要な役割を果たすことになると指摘しています。 - ■奄美諸島の遺跡■
横峯C遺跡・立切遺跡は種子島の旧石器研究の端緒を開き,またそれは奄美諸島の旧石器をより意義づけることとなり,日本列島と大陸との関係(南方ルート)を見直し再検討する契機となりました。
奄美諸島に旧石器の存在を最初に示した土浜ヤーヤ遺跡の局部磨製石斧の破片は,立切遺跡出土の局部磨製石斧と系譜がつながっていく可能性があります。笠利町喜子川遺跡の発掘調査では礫群と,頁岩とチャートの剥片が出土し,礫群の下部から採取された木炭は,25.250±790の放射性炭素年代がでています。
徳之島の伊仙町天城(アマングスク)遺跡は1998年に発掘調査され,チャート製の台形様石器を中心とした石器群が出土しました。これらは縄文土器が出土した位置より下層のマージ層から出土しており,発見された台形様石器などの石器組成は,旧石器時代の石器の可能性が高いとされています。
天城遺跡の石器群を加藤晋平氏(国学院大学教授)は完新世の約6,000年前の無土器文化に伴う石器群としてとらえ,台湾島を含めて東南アジア地域の系譜で考えています。一方小田静夫氏(東京都教育庁主任学芸員)などは本州島の約3万~2万5,000万年前頃の旧石器群に対比できるとの見解をもっています。こうした論争を生んでいることは,すなわち、これら大隅・奄美諸島の遺跡の評価が日本列島全体の旧石器研究にかかわっていることをしめしています。- ■旧石器時代人の移動■
- 以上をもって,氷河期の氷期と間氷期のあいだでそれぞれの環境変化に適応した異なる石器文化の移り変わりを想定してもいいのではないでしょうか。立切遺跡や横峯C遺跡はやや暖かい時期に成立しており,これが列島を北上し,その後の氷期にナイフ形石器文化が南下し,礫群や磨製石斧を伴うナイフ形石器文化が成立したと考えられます。
琉球大学木村政昭教授は,3万年前から2万年前の琉球弧においては,陸橋が形成され,ケラマギャップとトカラギャップについても,渡れた時期があった可能性を指摘し,2万年前以降の地殻変動に伴う急激な沈水を迎え今日に至るとする研究を発表しています。長い旧石器時代に,海水面の上下と環境変化に適応して,旧石器時代人たちは南下・北上を繰り返していたのではないでしょうか。
縄文時代草創期や早期の南の縄文文化と関連づけて,南の先進性を主張する向きもありますが,年代があまりにも離れており,そうした図式で文化を理解しようとする態度は科学的とはいえないばかりか,人間行動などの理解をも矮小化していくことにほかなりません。何万年から何百年にかけての長い年月を経て,モンゴロイドがベーリング海をわたりアメリカ大陸を南下したように,旧石器時代人たちの移動範囲はひろかったのです。 - 用語解説
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AT火山灰 姶良・丹沢火山灰の略,姶良カルデラの約2万5,000年前の噴出物で,南九州では火砕流噴出物が厚く堆積し,「シラス」といわれる。 種4火山灰 種子島で確認された火山灰で下位より種1~種4火山灰といわれる。その上にAT火山灰が堆積している。 マージ層 隆起石灰岩の風化土壌で,赤色の粘土層である。乾燥すると固結し,雨がふるとドロドロとなる。近世・近代では,人力で海砂を混入して土壌改良していた。 - (文責)堂込 秀人
考古ガイダンス第22回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第22回 大規模な石器製作所 - ■旧石器時代終末■
日本最初の旧石器時代遺跡である岩宿遺跡が発掘調査(1949年)されてから半世紀が過ぎました。この間に鹿児島県内の旧石器時代遺跡も多く発見され,その数は現在100ヵ所を越えています。
人類が誕生して以来,旧石器時代は数回の氷期を経ており,絶滅したナウマンゾウやオオツノジカなどを追い求める生活をしていたと考えられています。日本では最後の氷期であるウルム氷期のなかごろ,約3万5,000年前以後を後期旧石器時代に区分しています。
後期旧石器時代の終末は,主要な狩猟用石器がそれまでのナイフ形石器から細石刃(さいせきじん)に変わることにより細石刃文化と呼ばれています。細石刃はカミソリの刃を小さくしたような長さ2センチ程度の大きさであり,小さいため単独では道具とならず骨角などに溝を彫り,そこにたくさん埋め込んで槍先などとして使用したと考えられています。- 【地図 仁田尾遺跡(鹿児島市石谷町/旧日置郡松元町)】
- 細石刃は日本だけではなくシベリア・中国・韓国など東アジアの広い地域で,旧石器時代終末に使用されています。
細石刃文化の開始は約1万5,000年前とされていますが,最近の北海道の調査では2万年前のものが発見されており,日本列島の南北で開始の様相が異なることが知られてきました。 - ■仁田尾遺跡■
南九州西回り自動車道建設に伴い発掘調査された仁田尾(にたお)遺跡では細石刃文化の石器などが多量に出土しました。石器には細石刃のほか掻器(そうき)・削器(さっき)・打製石斧・礫器(れっき)・磨石(すりいし)などがあり,また石器を作った時の石のカケラ(剥片)も多量に発見されています。
【写真 仁田尾遺跡の発掘調査】- これらの遺物は広い範囲に万遍なく出土するのではなく,直径数メートルの範囲に集中しており,このような遺物が集中している区域をブロックあるいはユニットと呼んでいます。つまり石器や剥片が集中して発見されるブロックは,それが石器製作の場所であったことを示しています。
- 普通の旧石器時代遺跡ではブロックは数ヵ所発見されますが,仁田尾遺跡では50ヵ所を超えるブロックが発見されています。遺物総数も10万点以上であることから大規模な石器製作所であったと考えられます。そのため日本最大級の細石刃文化遺跡として注目されています。
- ■細石刃技法■
石器である細石刃よりも,細石刃を剥ぎ取った残りの細石刃核(さいせきじんかく)が多くの情報をもっています。すなわち当時の人々がどのような手順で細石刃を作っていたかという石器製作技術が読み取れるからです。細石刃の形は一定であっても,それを剥ぎ取るまでの技術と方法は地域や時期の違いにより異なっていることが判明しています。
- 【写真 細石刃の装着例(実験製作品)】
北海道や東日本では大型の槍のような形に整えたものを準備段階として作り,その後に平坦な打ち欠く面を作って細石刃を剥ぎ取る湧別(ゆうべつ)技法が一般的です。
西日本では比較的小さな剥片や小礫を使い,最初に細石刃を剥ぎ取る平坦な打ち欠く面を決め,その後細石刃核の形を整える矢出川技法(やでがわぎほう)が広く分布しています。矢出川技法により作られたものは野岳・休場型細石刃核と呼ばれています。このように細石刃の製作技術の違いにより,当時すでに地域性があったことが理解できるのです。- 【図 細石刃の剥ぎかたの一例(細石刃核を左手で石の割れ目に固定し,右手の鹿角で押し剥いでいる)】
- 九州では矢出川技法の他にも数種類の細石刃製作技術が知られており,地域性や製作時期の違いとされています。なかでも鹿児島市加治屋園遺跡から出土した細石刃核は,扁平な板状の凝灰岩質頁岩を数個に分割してそのまま細石刃を剥ぎ取るという,他に類例のない特徴的な製作技術であり,遺跡名から加治屋園技法と呼ばれています。
- また宮崎県南部を中心として一部大隅半島まで分布するものとして畦原型細石刃核(うねわらがたさいせきじんかく)があります。これは砂岩の小円礫を二分割してそのまま細石刃を剥ぎ取るものであり,加治屋園技法との関連性が認められています。
- 最近種子島の数か所の遺跡で発見された細石刃核は東九州に特徴的な船野(ふなの)型細石刃核であり,使用されている石材は頁岩であり,形態や石材から宮崎県南部との関連性が指摘されます。
仁田尾遺跡で出土した細石刃核は1,000点を超えています。九州で認められるほとんどの種類の細石刃核が網羅されており,今後の分析・研究が期待されています。 - ■狩猟用落とし穴■
- 旧石器時代も終末になるとナウマンゾウなどの大型動物からイノシシやシカに変わっており,当時の人々はこれらの動物の狩猟やドングリ類などの採集により食料を確保していました。
仁田尾遺跡では平面形が長方形や楕円形の遺構が検出されました。長さ1.5メートル,幅0.8メートル,深さ1.2メートル程度の穴で,底面には小さな穴(細いクイを埋め込んだ痕跡)が複数確認されたことなどから,イノシシやシカを捕獲するための落とし穴であることが明らかとなりました。
【写真 仁田尾遺跡の落とし穴(床面にクイを打った痕跡が見える)】- 仁田尾遺跡では16基の落とし穴が発見されました。このような細石刃文化期の落とし穴は出水市大久保遺跡や入来町鹿村ヶ迫遺跡でも検出されています。
- つまり細石刃文化期の南九州では細石刃を装着した槍による狩猟だけでなく,落とし穴を使用する狩猟も,全国より早い時期に広く行われていたことが明らかとなりました。
- ■縄文時代の開始前夜■
- 仁田尾遺跡では細石刃などと一緒に,一部のブロックでは石鏃と土器も発見されています。この石鏃や土器は縄文時代の指標であることから,まさに旧石器から縄文へと,時代の新世紀を迎えていたと考えられています。
- 用語解説
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掻器(そうき) 動物の皮などをなめす道具と考えられている。 削器(さっき) ものを切ったり削ったりするナイフのような道具。 磨石 ドングリ類などをつぶしたり粉にする道具。 礫器(れっき) 礫に簡単な打ち欠きを行っただけの道具。 細石刃技法 細石刃をどのような手順で製作していたかを明らかにしたもので,剥片などの接合作業から導かれる。 - (文責)宮田 栄二
考古ガイダンス第21回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第21回 定住生活の始まり - 霧島市の上野原遺跡は,縄文時代早期前半(約9,500年前)の大規模な集落で,当時の南九州の独特な文化を垣間見ることができます。このような集落をつくって長く住む「定住生活」と,それにまつわる様々な文化は,いつどこでどのように始まったのでしょうか。
- ■変わりゆく風景■
今のところ「定住生活」は,縄文時代草創期(そうそうき)と呼ばれている約13,000年前から約10,000年前の間に始まったと考えられています。
このころは,氷河が大陸を覆う寒冷な気候(氷期:ひょうき)から温暖な気候(間氷期:かんぴょうき)へと変わりつつありました。氷河がとけるにつれ,大気は暖かく湿り気を帯びはじめました。大気の変化によって暖かくなり雨が多くなった大地では,落葉広葉樹(らくようこうようじゅ)の森が生まれ木の実を実らせるようになり,氷河期にいた大型の動物にかわって小型で敏捷な動物が姿を見せるようになりました。またかつて草原だった土地は浅い海になり,魚や貝などの姿が目立ち始めました。- 【地図 遺跡位置図:1 瀧之段遺跡,2 向栫城跡,3 掃除山遺跡,4 栫ノ原遺跡,5 東黒土田遺跡】
- このようにめまぐるしく変わっていくまわりの自然環境に適応し生き残るため,列島各地の人々はそれまでの暮らしを変え始めた。他よりもいくぶん早く変化が始まっていたと考えられる南九州にいた人々もこうした行動をおこしていたに違いありません。
- ■定住生活への道のり■
新たな環境のもとで,狩りの道具に変化が現れました。
今までの槍に変わり,弓矢が発明されたました。腕力頼みのうえに枝が茂る森の中で充分に振りかぶれない槍にくらべて弓矢ははるかに小型で,しかも弓の張力を使って矢を速く強く遠くまで飛ばすことができました。きっと森の小動物でも確実にしとめられたことでしょう。
- 【写真 志風頭遺跡の土器[口径約42cm・深さ約27cm](出典 加世田市教委)■
- 次に土器が発明されました。人々は土器を使って,森に豊富にある木の実や草の新芽や根っこなどを煮炊きして食べることができるようになりました。
「人類が利用した初めての化学変化」ともいわれる土器は煮炊きの技術を可能にさせ,食べ物の種類を飛躍的に増やした画期的な道具だといえるでしょう。 土器の利用により,人間の食べることのできる植物が増え,確保が楽になり栄養のバランスもよくなりました。また柔らかく煮ることで老人や子供や病気の人などにも食べやすくなり,集落が移動せず落ち着いて暮らせるようにもなったのです。
【写真 加栗山遺跡の石皿[長さ40cm・厚さ約9cm]】- これらの技術を採り入れた南九州の人々は,とくに木の実などを主食とする暮らしを始めたようです。このことは出土する土器や,木の実などをすりつぶす道具とされている磨石や石皿などが他よりも多く出土することからもわかります。
- その上,人々は「煙道付炉穴(えんどうつきろあな)」や「配石炉(はいせきろ)」という画期的な施設も生みだしています。前者は薫製を作っていたかもしれない施設で,肉類など腐りやすい食料の保存法をよく知っていたことが推察され,後者は火の熱を効率的に使う施設の可能性が考えられています。
- そして,人々は森のそばの適当な土地に「竪穴住居(たてあなじゅうきょ)」を建てて集まって暮らすようになり,「定住生活」を始めたのです。では,県内各地にある草創期の主な遺跡をごく簡単に紹介しましょう。
鹿児島市の掃除山(そうじやま)遺跡は当時の様子がよくわかる代表的な遺跡で,竪穴住居や煙道付炉穴,配石炉などがあり多量の土器と磨石・石皿が出土しました。加世田市の栫ノ原(かこいのはら)遺跡は,竪穴住居こそ発見されていないものの,掃除山遺跡とよく似た施設や多量の土器・石器が出土しました。
【写真 約11,000年前の集落・掃除山遺跡(出典 鹿児島市教委)】弓矢に使う矢じり(石鏃:せきぞく)は,市来町の瀧之段(たきのだん)遺跡や東市来町の向栫城跡(むかいがこいじょうあと)で多量に出土しています。また,志布志町の東黒土田(ひがしくろつちだ)遺跡では木の実がつまった土坑が発見されています。この他,種子島にも同じような遺跡があります。
【写真 栫ノ原遺跡の配石炉(出典 加世田市教委)】- 当時は定住地を決めてそこで一生暮らすのではなく,ある程度の広さを持った地域内にいくつかの定住地点をかまえ,周辺の森で木の実などを採ったり狩りをしたり,川や海で漁をしたりしていたと考えられています。今のところ,これが草創期の「定住生活」のありかたと考えられていて,特に南九州では森という環境により適応した「定住生活」を築いたようです。
- (文責)横手 浩二郎