考古ガイダンス第10回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第10回 畿内勢力の浸透 1 飯盛山古墳
2 横瀬古墳
3 唐仁古墳群
4 塚崎古墳群
5 岡崎古墳群
6 小浜崎古墳群
7 指江古墳群
8 鳥越古墳群
9 脇本古墳群
10 船間島古墳群
11 弥次ケ湯古墳- 【地図 南九州の古墳の様相・畿内型古墳の分布域と南九州の墓制】
- 3世紀末から4世紀に,土を高く盛り上げて造る高塚墳(たかつかふん)と呼ばれる大型の墓が,近畿地方を中心に盛んに造られるようになりました。これらの墓は,当時の権力者(豪族)(ごうぞく)が,他の豪族や人々に権力を示すために造らせたものです。円墳や方墳などいろいろある高塚墳の中でも,前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は,この時代(古墳時代)の代表的な墓です。大阪府にある大山古墳(だいせんこふん・仁徳陵)は,長さ約480メートル,幅約300メートル,高さ約35メートルもあり,世界でも類をみない大きさです。
高塚墳は近畿地方を中心に造られ始めたため,畿内型古墳とも呼ばれます。5世紀までには東北から九州まで分布するようになりました。この畿内型古墳の分布は何を意味するものでしょうか。
南九州の古墳文化の様相を紹介しながら,その意義について考えてみます。 - ■南九州の畿内型古墳■
南九州への畿内型古墳の伝播には,大きく2つのルートがあります。1つは,佐賀,熊本から薩摩半島西岸沿いに伝播してくるルート。もう1つは,宮崎から大隅半島東岸沿いに伝播してくるルートです。
薩摩半島西岸沿いの地域では,4世紀中頃にはすでに阿久根市に鳥越1号墳が築かれています。この鳥越1号墳は,初期畿内型古墳の様相を示し,3世紀末に成立した大和朝廷の影響が急速に南九州まで及んでいったという事実が伺えます。- 【画像 大崎町 横瀬古墳】
- 大隅半島の志布志湾沿岸地域では,5世紀前半に志布志町のダグリ岬に飯盛山古墳(いいもりやまこふん)が築かれました。その後大崎町の横瀬古墳(よこせこふん),東串良町の唐仁大塚古墳(とうじんおおつかこふん)などの巨大な前方後円墳が築かれていきます。
しばし,この巨大前方後円墳に目を向けてみましょう。 - ■志布志湾沿岸沿いの古墳■
肝属川(きもつきがわ)流域の肥沃な沖積平野を背景に,この地域には古墳が集中し,鹿児島県内最大規模の前方後円墳が存在します。大崎町の横瀬古墳(国指定史跡)は,水田の中に全長132メートル,高さ約12メートルの優美な姿を見せ,周囲には幅12~23メートル,深さ約1.5メートルの濠(ほり)も確認されています。
墳丘(ふんきゅう)や濠からは,須恵器(すえき)や埴輪(はにわ)などの破片が発見されています。本県で埴輪を有する古墳は,現在のところ志布志町の飯盛山古墳とこの横瀬古墳だけです。須恵器は,韓国南部の伽耶系(かやけい)の陶質土器である可能性が高いと思われます。- 【写真 大崎町 横瀬古墳】
- 横瀬古墳の西約4キロメートル,隣接の東串良町新川西に前方後円墳4基,円墳133基からなる県内最大の唐仁古墳群(国指定史跡)があります。
その中の大塚古墳(1号墳)は,全長180メートル,後円部の高さ約10メートル,九州でも最大級の前方後円墳です。大塚古墳の後円部墳頂は,大塚神社が建てられる時に削平されたと思われます。そのため,竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)の天井部が露出しています。石室内部には石棺(せっかん)が置かれ,棺外に短甲(たんこう)が副葬(ふくそう)されていました。5世紀中頃の古墳と考えられています。
この他,串良町の岡崎古墳群,高山町の塚崎古墳群(国指定史跡)があり,肝属平野を中心に畿内型の古墳が集中しています - ■薩摩半島西岸沿いの古墳■
- 薩摩半島西岸沿いでは,どのような様相が見られるのでしょうか。
前述のように,いち早く畿内型古墳が出現するのは,阿久根市の鳥越1号墳です。墳丘は削平され形状は不明ですが,竪穴式石室は九州第2位の大きさで,初期畿内型古墳の特徴を備えています。その後も5世紀中頃以降,長島の小浜崎古墳群や指江古墳群,阿久根市の脇本古墳群など,畿内型古墳がみられます。
このような畿内型古墳は,川内市までみられ(船間島古墳等),川内市がその南限とされていました。平成10年,これまでの認識を一変させる発掘が指宿市でありました。弥次ケ湯(やじがゆ)古墳です。この発見は,古墳文化の南限の見直しと,階層社会がすでにこの地域でも成立していたことを認識させるものでした。 - ■南九州の古墳の様相■
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地下式横穴墓
地下式板石積石室墓
立石土坑墓 - ここまで,畿内型古墳を中心に目を向けてきましたが,南九州では,畿内型古墳のほかに,地下式横穴,地下式板石積石室(ちかしきいたいしづみせきしつ),土坑墓(どこうぼ)等の埋葬(まいそう)形態があります。
畿内権力浸透の現れである高塚墳と,南九州独特の墓制である地下式横穴,地下式板石積石室は混在しています。このことは,大和政権の影響が南九州まで及んでいたにもかかわらず,その全てを受け入れたのではなく,南九州の古墳文化がこれまでの文化を踏襲した中に,大和政権の影響を受け入れる形で形成されたことも示しています。
南九州のある地域は早くから大和の文化を受け入れ,ある地域は最後まで抵抗をしたものと思われます。そこには,喜怒哀楽を伴った人々のドラマがあり,古墳は悠久の時間,これらのドラマを眺めつつも,「黙して語らず」。今後も世の移ろいを眺め続けるでしょう。 - 用語解説
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墳丘 墓に付属する盛土・積石などで,墓標としての性格とともに,遺体をおおう役割をもつもの。 須恵器 古墳時代から平安時代までみられる陶質土器の総称。
登り窯(かま)を用いて,約1,100度の還元焔(かんげんえん)によって灰青色に焼き上げる。埴輪 古墳の周りや上に置かれた素焼の土製品の総称。円筒形や家,動物,人などの形をしたものがある。 伽耶 紀元4世紀頃,朝鮮半島の南部に群拠した小国家群。
連合体をなしながらも一国にまとまることなく,新羅に征服され滅亡する。竪穴式石室 古墳の埋葬施設の一種。棺(ひつぎ)を設置したのち,四方に扁平な割石を小口積みにして壁を築き,その上に天井石をのせ閉鎖する。 短甲 胴部分のみを防御するための鉄で出来た甲(よろい) - (文責)大保 秀樹
考古ガイダンス第9回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第9回 南九州独特の墓制 - 地下の暗い穴の中,サーチライトの明かりのもと,人骨といっしょに横たわる一人の男がいます。上には,下の方をのぞき込みながら待っている男の人も一人いました。
「右からいくら。」「右から35センチです。」と,大きな声のやり取りが聞こえてきます。何の場面か分かるでしょうか。
これは,肝属郡吾平町にある中尾遺跡で,墓(はか)を調査しているときの場面です。墓といっても高塚墳(たかつかふん)ではなく,地下式横穴墓(ちかしきよこあなぼ)と呼ばれる古墳時代の墓です。
3世紀末から4世紀に,近畿地方を中心に土を盛り上げてつくる高塚墳と呼ばれる大きな墓が造られるようになり,5世紀までには東北から九州まで分布するようになりました。しかし,南九州では,高塚墳を造るようになるとともに,地下式横穴墓,地下式板石積石室墓(ちかしきいたいしづみせきしつぼ)という南九州独特の墓や,土坑墓(どこうぼ)という墓がつくられるようになりました。
そこで,今回はこれらの墓はどのような墓なのか,その構造や分布,副葬品(ふくそうひん)について,鹿児島県内の遺跡を通して紹介していくことにします。 1 中尾遺跡 吾平町
2 宮ノ上地下式横穴墓群 吾平町
3 祓川地下式横穴墓 鹿屋市
4 岡崎地下式横穴墓群 串良町
5 神領地下式横穴墓群 大崎町
6 永山地下式板石積石室墓群 吉松町
7 平田地下式板石積石室墓群 大口市
8 瀬ノ上地下式横穴墓群 大口市
9 別府原地下式板石積石室墓群 薩摩町
10 横岡地下式板石積石室墓群 川内市
11 亀ノ甲遺跡 霧島市
12 成川遺跡 山川町
13 松之尾遺跡 枕崎市
※各番号は,地図中の番号に対応- 【地下式横穴墓・地下式板石積石室墓・土坑墓の分布】
- ■地下式横穴墓(ちかしきよこあなぼ)■
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地下式横穴墓
地下式板石積石室墓群土坑墓
地下式横穴墓とは,地表から竪穴を掘り,その竪穴の底から横方向に掘り進めて,玄室(げんしつ)という遺体を置く部屋を造る墓です。埋葬した後は,羨道(せんどう)という玄室の入り口を土のかたまりや軽石等でふさぎ,竪穴部を埋め戻すものです。
この地下式横穴墓は,宮崎県の一ツ瀬川流域を北限とし,宮崎平野部,宮崎県内陸部,川内川上流域部,志布志湾岸及び内陸部,熊本県人吉盆地で確認されています。- 【写真 中尾遺跡(肝属郡吾平町)】
2号墓の玄室(中央上)と羨道(中央下)玄室には副葬品の鉄剣があり,羨道は火山灰の塊で塞いである。 - 川内川上流域部では大口市に瀬ノ上(せのうえ)遺跡などがあります。
この瀬ノ上遺跡では地下式横穴墓11基が調査されています。副葬品として,鉄剣(てっけん)・鉄鏃(てつぞく)などとともに蛇行鉄剣(だこうてっけん)という珍しいものが出土しています。 志布志湾岸内陸部では先に紹介した吾平町中尾遺跡などがあり,中尾遺跡では地下式横穴墓6基が確認されています。人骨が残っているものがあり,1つの玄室に3体の人骨が埋葬されたものもあります。副葬品として,金環(きんかん),鉄剣,織物の一部が付着した鈴が出土しています。
【写真 中尾遺跡(肝属郡吾平町) 6号墓の玄室内】
二体の人骨と鉄剣などの副葬品- また,同町宮ノ上(みやのうえ)地下式横穴墓群では,玄室に軽石製の組合せ石棺をもつものが確認されています。この志布志湾岸及び内陸部では,宮ノ上地下式横穴墓群のように軽石製の組合せ石棺をもつものが見られます。さらに,鹿屋市祓川(はらいかわ)地下式横穴墓のように短甲・衝角付冑(たんこう・しょうかくつきかぶと)を副葬品としてもつものもあり,この短甲・衝角付冑は考古資料として県指定を受けています。
- ■地下式板石積石室墓(ちかしきいたいしづみせきしつぼ)■
地下式板石積石室墓とは,地表から竪穴を掘り,この竪穴の底に板石や扁平な河原石を使って石室(せきしつ)という部屋を造り遺体を埋葬し,その上に魚の鱗(うろこ)のように板石を積み上げて遺体を覆う墓です。最初に掘った竪穴は埋め戻されます。
【写真 別府原古墳公園(薩摩郡薩摩町)の地下式板石積石室墓】- この地下式板石積石室墓は,熊本県天草・芦北地方や鹿児島県出水市など八代海沿岸部,熊本県の球磨川上流域部,川内川流域部,宮崎県大淀川上流部で確認されています。
川内川流域部では大口市に平田遺跡などがあり,この平田遺跡では長方形・多角形・円形の形の石室をもつ地下式板石積石室墓140基が確認されています。また,吉松町永山遺跡では地下式板石積石室墓の周囲に円形の周溝を巡らしているものもあります。
【写真 横岡地下式板石積石室墓群(川内市) 7号墓の石室・副葬品】- 副葬品を見てみると,鉄剣・鉄鏃などが多いですが,川内市横岡地下式板石積石室墓群のように金環(きんかん)・冑(かぶと)・蛇行鉄剣をもつものもあります。
- ■土坑墓(どこうぼ)■
- 土坑墓とは,地面に長方形あるいは楕円形・円形の穴を掘り,そこに遺体を埋葬する墓です。薩摩半島南部と錦江湾沿岸部の一部で確認されています。
薩摩半島南部では揖宿郡山川町に成川遺跡があり,1.5ヘクタールほどの広さに100を越える土坑墓があり,300をこえる人骨が発見されています。副葬品として,鉄剣・鉄刀・鉄鏃があり,蛇行鉄剣も出土しています。また,枕崎市の松之尾(まつのお)遺跡でも土坑墓が30基あまり確認されており,鉄鏃・刀子(とうす)・刀が副葬品として出土しています。
錦江湾沿岸部では霧島市に亀ノ甲(かめのこう)遺跡の土坑墓があり,副葬品として環頭大刀(かんとうたち)・鉄鏃・刀子が副葬品として出土しています。 -
横岡地下式板石積石室墓群
(川内市)
7号墓の副葬品(写真と実測図)左
1 長刀
2 小刀
3 短刀
4 短剣
5 蛇行鉄剣
右
1 三本の鉄鏃
2 四本の鉄鏃と一本の刀子
横岡地下式板石積石室墓群
(川内市)
5号墓の副葬品 - 今回紹介した地下式横穴墓や地下式板石積石室墓は,竪穴を深く掘ったうえに更に横穴を掘ったり石で石室を造ったりする墓です。これは大変手間のかかることであり,労力を要することです。なぜ労力を要する墓を造ったのでしょうか。また,高塚墳と南九州独特の墓が共存することは何を意味するのでしょう。さらに,南九州独特の墓が高塚墳と比べても引けを取らない副葬品をもっているということについてはどうでしょうか。
高塚墳は大和朝廷から派遣された者の墓,地下式横穴墓などは南九州在住民族の墓というように決められていたのでしょうか。それとも,大和朝廷との関係の違いによるものでしょうか。まだ,解明されていないことはたくさんあります。
みなさん,それぞれに思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。 - 用語解説
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副葬品 遺体の埋葬にあたり死者に副えて置いた品。 鉄剣 鉄製の両刃の武具。 鉄鏃 矢の先端に装着し突き刺すための鉄製の武具。矢尻ともいう。 刀子 ナイフ・こがたなのこと。 蛇行鉄剣 剣身部をゆるくS字形に蛇行させた剣形鉄器。 金環 環状の耳飾りのなかで,金製または青銅に金メッキを施したもの。 冑 頭部を防御するための鉄製の武具。 短甲 胴部分のみを防御するための鉄製の甲(よろい)。 衝角付冑 前面が衝角(船のへさき)に似た冑。 組合せ石棺 底・壁などの各部分を石で組み合わせてつくった棺。 環頭大刀 つか(手で握るところ)の先が環状になっている大きな刀。 - (文責)溝口 学
考古ガイダンス第8回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第8回 南の先駆性を示す上野原遺跡 - ■今も昔も桜島■
- 錦江湾に浮かぶ桜島。鹿児島と言えば最初に思い浮かべる風景とはそのようなものかもしれません。鹿児島のシンボルとでも言うべきその島は,今なお活発な火山活動が続いています。火山灰は周辺地域へ降灰をもたらし,様々な方面で「鹿児島」に多大な影響をあたえています。
・・・今からおよそ9,500年前,大規模な桜島の噴火活動がありました。その時の火山灰はP-13火山灰と呼ばれています。霧島市上野原遺跡では,この火山灰に埋もれた竪穴住居跡や連穴土坑などが検出され,このことで集落の時期が特定されました。現在,遺跡の一部は平成11年に国の史跡に指定され埋め戻されています。
上野原遺跡が最初に発見されたのは昭和61年に遡ります。平成9年度までに数々の時代の様々な遺構や遺物が発見され,今は「上野原縄文の森」で再び甦りました。ここでは,縄文時代早期の上野原遺跡について紹介していきたいと思います。 - ■国内最古・最大級の遺跡■
上野原台地の北側斜面(第4工区)で発見された約9,500年前の集落跡は,竪穴住居跡・連穴土坑・集石・土坑・道跡などで構成されています。まず,竪穴住居跡52軒が検出されました。この軒数だけを聞くと大規模なムラと思われますが,このうち一時期を構成するものは,10軒程度と考えられています。しかし,竪穴住居跡の埋土を詳細に見ていくと,この10軒の竪穴住居跡内にあるP-13火山灰の堆積状況に違いが見られ,将来的には細分が出来そうです。
- 【写真 竪穴住居跡検出状況】
- 次に,連穴土坑と呼ばれる遺構16基が検出されました。用途としては,瀬戸口望氏が燻製作りの施設であるという説を打ち出して以来,実験考古学の立場などからその説を補強する実験結果が得られています。
この連穴土坑内にも竪穴住居跡と同様にP-13火山灰が堆積しているものもあり,自然埋没の過程で火山灰が堆積したことが伺われます。また,集石は39基が検出され,用途としては石蒸し料理を行った調理場ではないかと考えられています。 - さらに,土坑の集中している場所が二か所検出されています。その集中部分と単体で検出されているものを合わせると約260基を数えます。用途については,食糧の貯蔵や埋葬などに使用されたことが考えられています。また,遺跡内を南北に走る二条の谷状地形がありますが,この谷状地形の部分に遺構が重ならない点などから,道として利用されていたのではないかと考えられています。
このように土坑のみが集中する場所があることや,谷状地形に他の遺構が重ならない点などから,当時既に土地利用に規則性のようなものがあった可能性が考えられます。このように,集落構造が判る遺跡としては全国でも最古級に属し,人がムラを形成する初期の様相を伺い知る事ができるのです。 - ■ムラの道具類■
集落を構成する土器は,広義の前平式土器に該当します。この土器は主に,「ハイガイ」や「サルボウ」と言った海に生息する貝で文様を施しています。また円筒形と角筒形という形状があり,特に角筒形は全国でもあまり例はない特殊な土器です。南九州で独自に発生したと考えられ,上野原遺跡の頃が最も美しいといえます。これらの土器は,全体として薄く仕上げられており,当時の土器製作技術の高さが窺えます。この土器は,広く南九州一帯に分布しており,平底の特徴など南九州の独自性が濃くなっています。
- 【写真 集落内出土の土器(広義の前平式土器)】
- 石器は,狩りの道具である石鏃の他に植物加工具である磨石・石皿類,伐採具である石斧などが出土しています。量的には,磨石・石皿が非常に多くなっています。当時の植生は落葉広葉樹が中心であったとされることから,遺跡の周辺には木の実の生い茂る豊かな森があったと考えられます。
- ■豪華絢爛 -成熟した南の縄文文化-■
かわって,上野原台地南側(第3工区)の約7,500年前の紹介をします。
ここでは,2個が対で埋納された壷形土器が出土しました。壷の口縁部に赤色顔料が付着しており,非日常的なものと思われます。したがってこの土器は,祭祀的な行為に用いられていた可能性が考えられています。
また,周辺から土偶や多種多様な土製品や石製品などが多数出土し,当時から成熟した豊かな精神文化が南九州にあったことを示しています。人々の生活も私たちが想像する以上に安定していたものと思われます。- 【写真 7,500年前の土器】
ところで,このような祭りを行った人々の集落は何処にあったのでしょうか。
台地南側の発掘調査では,当時の集落跡の発見までは至っていません。これは,遺物の出土が調査区域外まで延びていることから,調査区の外側にあるのではと想定もされています。
将来周辺部分の発掘調査によって解明されるでしょう。なお,出土した遺物のうち767点は,国の重要文化財に指定されています。- 【写真 用途不明の石器】
- このように上野原遺跡は,縄文時代早期の南九州の文化を考える上で極めて重要な発見が相次いだ遺跡ですが,その後,再びこの地に南九州人が集落を形成するのは約2,500年前の縄文時代晩期に入ってからです。
その間約5,000年,ムラは何処へ移っていったのでしょうか。 - 用語解説
-
P-13火山灰 大正3年の火山灰を1番目として新しい順番に並べると13番目の桜島火山灰。
主に,大隅半島に降灰しています。火山灰層の上下から採取した炭化物から
約9,500年前のものと考えられています。なお,Pとはパミス(軽石)のことです。前平式土器
(まえびらしきどき)鹿児島市吉野町雀ケ宮の前平遺跡出土の土器を基にして河口貞徳氏によって
型式設定されました。その後の類例の増加によって,研究者によってその名称や
型式の範疇などに見解の相違があります。連穴土坑
(れんけつどこう)大小二つの穴が連結するもので,南九州では縄文時代草創期から見られます。煙道付き炉穴や炉穴とも呼ばれています。 - (文責)黒川 忠広
考古ガイダンス第7回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第7回 早期に展開した集落 - ■加栗山遺跡の集落 [ムラ]■
- 博士と中学生の文太君の会話です。
- 文太‥「霧島市の上野原遺跡は,素晴らしい遺跡であるということがわかったけれど,縄文太時代早期の集落[ムラ]は他にもあったの?」
博士‥「いい質問だね。下の地図を見てごらん。鹿児島県でこれまでに発見されている縄文時代早期の遺跡はこんなにあるんじゃ。鹿児島市の加栗山遺跡は特に有名で,いろいろな本にも登場しておる。」 - 文太‥「わあ,すごい。でも竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)のある遺跡となると,そんなに多くないんだね。」
博士‥「ふむ,確かに当時の人口は今より少なかったし,まだ調査されずに土の中に眠っている遺跡もたくさんあるじゃろうからのう。しかし,全体の様子となるとそう極端には変わらないだろうから,これらの資料から何が読み取れるか考えてみよう。」
博士‥「まず,加栗山遺跡の図を見ながら,当時のムラの様子を調べてみよう。上野原遺跡と比べてみて,どんなことに気がつくかな?」 - 文太‥「えーっと,うん,数は少なくなるけど竪穴住居跡がいくつもある。それに連穴土坑(れんけつどこう),集石(しゅうせき)もだ。竪穴住居跡の形は長方形に近いのがあることや,柱穴が竪穴のなかにあるのが違うかな。」
博士‥「そうだね。竪穴住居の造りはちょっと違うようだけど,竪穴住居と連穴土坑と集石,この三つがそろっていることが大事なんじゃ。それに,台地の縁に近くて水場が斜面を下った所にあるというのも同じじゃね。」
文太‥「三つの物がそろっているって,何か意味があるんですか?」
博士‥「考えてみてごらん。竪穴住居を建てるには大変な手間がかかる。まず,住居を造る場所に生えている木を切り,地面を整地して竪穴を掘る。それから木やツルを切ってきて骨組みを造り,木の枝葉や草などで覆って,やっと完成じゃ。上野原遺跡の復元住居の場合は,一棟につき大人3~4人で6日間もかかっておる。移動しながら生活していた旧石器時代のテントのような物とは,えらい違いじゃ。」
文太‥「ふーん。今と違って石器しかなかった時代にそんな苦労をしてまで住居を建てるなんて,やっぱりそこに長く住んでいた証拠といえそうですね。」
博士‥「そう,それにな,これらの住居は何回か建て直されてもおるようじゃ。加栗山遺跡の竪穴住居跡は17基発見されておるが,近すぎたり重なったりしている所もあれば拡張されている所もある。中には住居跡の竪穴を利用して連穴土坑が造られている所もあるぐらいじゃよ。もっとも,そうなると同時期にあった住居の数も減ってしまうがのう。5~6棟ぐらいではなかったかという説もある。」
文太‥「手入れをすれば何年も住める住居が繰り返し建てられたということは,よっぽど住みやすい場所だったんだね。ムラもそれだけ長くあったということかなあ。ところで,あとの連穴土坑と集石については?」
博士‥「そうじゃった。連穴土坑は以前に紹介されたように,燻製(くんせい)を作るための施設と考えられておる。そのままではすぐ腐ってしまう肉や魚などを長く保存できるようにする技術じゃな。これのおかげで,えものがたくさんとれたときに燻製にしておけば,食料難におちいることも少なくなり,ぐっと暮らしやすくなったことじゃろう。」
文太‥「そうやって作った燻製は,どうやって保存しておいたのかなあ。ひょっとしたら,新巻鮭みたいに住居の中に吊しておいたのかもしれないね。いつでも食べられるし,ネズミにかじられたりカビが生えないように見張っておくことができるもん。」
博士‥「はっはっは。案外そうかもしれんね。さて,集石の方じゃが,石蒸し料理を作る施設であることは文太君も知っておるの。」
文太‥「はい。石をたくさん集めて火で焼いて,その熱で肉や魚などを蒸すんでしょ。上に土をかぶせるんだよね。体験学習でやったことがあるよ。」
博士‥「そうそう。まあそれ以外に,こんな説もある。つまり,地面を掘りこんで革をしき,水を入れてから焼け石を入れれば湯沸かしもできるというんじゃな。一度に大量のお湯が必要なとき,たとえば,ドングリなどのアク抜きや食品などの加工処理に大いに役立ったことじゃろう。お湯を浴びることもできたかもしれんよ。」
文太‥「ふーん。遺跡はいろいろなことを考えさせてくれるんだね。縄文時代の人の知恵ってすごいなあ。」 - ■集落 [ムラ] のテリトリー■
- 文太‥「ところで博士,竪穴住居・連穴土坑・集石の三点セットがそろったムラの遺跡よりも,どうして,その他の遺跡が多いの?」
博士‥「それについては,こんな説があるんだよ。さっきの遺跡分布図をよく見てみると不思議なことに気がつく。それは,ムラを中心にして,その他の遺跡が周囲を取り巻いているように見えるというんじゃ。これは彼らのテリトリー[なわばり]を示しているんじゃないかとな。」
文太‥「えーっ!それってどういうこと?」
博士‥「つまり,こういうことじゃ。三点セットがそろったムラは彼らの根拠地であって,生活の中心であることに変わりはない。しかし,いくら条件の良い所にムラを定めたとしても,ムラの人々みんなの食糧を手に入れるためには,ムラの近くを探して回るだけでは足りなくなる。初めは良くても,しだいに人口が増え,木の実が不足し,動物たちもムラを避けるようになるじゃろう。そこで,ある程度遠くまで行かなければならなくなるという訳じゃ。そこては,テントのような仮小屋でキャンプしながら,狩りや採集に出かけ,集めた食糧をムラまで持って帰りやすいように,ある程度の加工処理をしていたんじゃなかろうか。三点セットのうち集石だけの遺跡が,かなりの数あることも,それを教えてくれているような気がするのう。もちろん一か所だけのキャンプ地ではあるまい。いくつもあったはす゜じゃ。」
文太‥「そのテリトリーって,どの位の広さがあったの?」
博士‥「それについては,まだ良くわかっていないんじゃ。ただ,ヒントはある。鹿児島市周辺の遺跡で見てみよう。加栗山遺跡・前原遺跡・鹿大桜ヶ丘団地遺跡,この3つの遺跡の位置関係はどうなっている?」
文太‥「あっ,同じぐらいの距離になっている!ええと,10キロぐらいかな。」
博士‥「ふむ,これが1つの目やすということになるの。ただ,となりのムラとの境は,川や谷・山や崖などといった自然地形の影響も大きかったろう。前原遺跡と永迫平遺跡との距離はもっと近いしのう。それに,テリトリー内の食糧資源が少なくなって,ムラを移した場合も考えられる。」
文太‥「そうなると,たくさんの遺跡のうちどれとどれが,同じ集団の人々の残した遺跡であるか確かめないといけないね。どうすればわかるのかなあ?」
博士‥「そのために何人もの研究者が,土器や石器などの遺物・土坑などの遺構を調べているんじゃよ。同じ型式の土器でも,作った人や集団によって全体の雰囲気や模様が微妙に違うからのう。」
文太‥「へえー。考古学って,遺跡を掘るだけじゃなくてその後の仕事も大事なんだなあ。ぼくも,いろんな遺跡を見て回りたくなったな。」
博士‥「鹿児島県立埋蔵文化財センターや各市町村の教育委員会に問い合わせてみてごらん。親切に教えてくれることじゃろう。」
文太‥「はい。人類の歴史や未来について考えるいい機会になりそうですね。」 - (文責)藤崎 光洋
考古ガイダンス第6回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第6回 南九州西回り自動車道関係遺跡 - ■発掘された26の遺跡■
- 南九州西回り自動車道(鹿児島から川内間)建設予定地内には31の遺跡が存在します。道路建設工事に先立ち遺跡の発掘調査は平成3年から計画的に行われ,調査の結果,旧石器時代から中・近世にかけての遺構や遺物が発見され多くの成果を得ました。
- ■縄文早期前葉の拠点集落■
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永迫平遺跡の全景
前原遺跡の縄文早期の竪穴住居跡群 - 伊集院町永迫平遺跡は旧石器時代から近世にかけての複合遺跡です。特に縄文時代早期については目をみはるものがあります。遺構としては,竪穴住居跡(9軒 )をはじめ集石(12基) ・連穴土坑(3基)・土坑 (487基)等があります。竪穴住居跡は保存状態が良好で,周囲には住居に関連する小柱穴も多数検出されています。遺物は,前平式土器を中心に石鏃,打製・磨製石斧,台形状に加工した石皿等が出土しています。
松元町前原遺跡では縄文時代早期の前平式土器に伴う竪穴住居跡が26軒,連穴土坑(5基),土坑(211基),集石(28基)が発見され,また水場へ続くと考えられる道跡も検出されました。これは縄文時代早期の集落構成を考える上で貴重な資料です。
縄文時代早期前葉(約9,500年前)の薩摩半島において,広域的な広がりの中で定住生活が営まれていたことが窺えます。これらの遺跡から立地や周辺の環境・遺構や出土遺物など,霧島市上野原遺跡との共通性が見られ,これらの3つの遺跡は極めて近い関係にあると言えます。 - ■西日本を代表する後期旧石器時代の複合遺跡■
松元町前山遺跡は約25,000年前に噴出した姶良丹沢火山灰・入戸火砕流層(シラス)を境に,下層に台形石器やハンマーストーン,上層に細石器とナイフ形石器等が出土し,旧石器時代の道具の変化を知る上で貴重な遺跡です。
仁田尾遺跡は松元町石谷字仁田尾に所在し,旧石器時代から平安時代までの複合遺跡です。特に,西日本最大級の規模を誇る細石器文化期とナイフ形文化期の遺物は,当時の様子を知る貴重な資料を提供するものです。- 【写真 旧石器時代面の検出状況(前山遺跡)】
- そのほかにも薩摩火山灰層(約11,500年前)直下からは,縄文時代草創期の無文土器や石鏃も出土しています。
- ■苗代焼最古の窯■
これまで紹介した遺跡は,今はすでになくなってしまって見ることができませんが,発見された遺構を移設して保存されている遺跡もあります。東市来町美山の堂平(どうびら)窯跡は,平成10年に調査を行いました。
堂平窯は慶安元年(1648年)に薩摩藩の御用窯として開窯されたといわれています。窯の構造は長さが約30メートル,幅が1.2メートル,傾斜角17度の半円筒形をした単室傾斜窯です。床面は5回の造り替えをした跡が観察できます。窯の北側には平坦地があり,ここでは多くの柱穴や,石囲いの穴,素掘りの穴などが発見され,窯に伴う作業場の可能性が高いと思われます。
出土品には薩摩焼の黒ものを主に,甕・壺・徳利・鉢や窯道具・動物形土製品等があります。白ものもわずかに焼かれていました。- 【写真 移設展示されている堂平窯跡】
- 特に注目されるのは瓦(軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦の陶器瓦等)の生産であり,これらは鶴丸城及び周辺で使われたとも言われています。
この遺跡は調査終了後,美山の陶遊館近くに移設されており,現在でもその姿を見ることができます。 - ■時代別の住み分けが概観できる遺跡■
最後にこの堂平窯跡の北側に所在する,池之頭遺跡について紹介します。
この遺跡は東シナ海から直線距離にして約2.5キロメートルの内陸に位置し美山池北西部の標高約80から100メートルのシラス台地の尾根部にあたります。調査は,平成10年8月末から翌11年3月末まで行われました。- 【写真 池之頭遺跡の発掘調査風景】
- 池之頭遺跡は地形的に大きく4つに分けられ,シラス台地の尾根部・尾根を挟む南側斜面及び北側斜面・さらに南斜面の裾にあたる平坦部から成っています。 南平坦部からは薩摩火山灰層(約11,500年前)の下にあたる通称チョコ層から旧石器時代の細石刃・細石刃核をはじめ剥片・砕片が多く出土しました。南斜面・尾根・北斜面では古墳時代の成川式土器が多量に出土しました。
- 器種も甕形土器・壺形土器・高坏形土器・坩形土器等と多彩です。また,南平坦部から南斜面にかけては,縄文時代早期の前平式土器・吉田式土器・石坂式系土器などの土器が出土しました。さらに縄文時代中期・後期と考えられる土器片も少量ですが見られます。
遺構は,縄文時代早期の集石(石蒸し料理の施設と考えられている)5基が検出されました。しかし,今回の発掘調査では,竪穴住居跡等は発見することはできませんでした。
これらの遺跡全体を概観すると,旧石器時代・縄文時代・古墳時代とひとつの丘陵の中でそれぞれ住み分けをしたことがうかがわれ,同じ丘陵上での時代別の変遷を知るうえで貴重な資料であると言えます。 - (文責)宮田 洋一
考古ガイダンス第5回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第5回 火山灰のカタログ - ■最近の研究から■
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桐木遺跡の土層
アカホヤ火山灰中に噴出した噴礫 - 火山噴火によって噴出される火山灰や軽石,火砕流などの堆積物はテフラと呼ばれ,堆積の順序や含まれる鉱物や火山ガラスの特性,文献に残された記録や理科学的年代測定により,いつの,またどの火山の噴出物であるかを知ることができます。このような火山灰層は,遺跡や出土した遺構 ・遺物等の情報を提供してくれる重要な手がかりであり,鍵層(かぎそう)とも呼ばれています。
1970年代以降,各地で発見されたテフラの編年的研究(テフラクロノジー)が進み,遺跡調査でも積極的にこれらの成果がとり入れられてきました。
約2万5,000年前,鹿児島湾奥の姶良カルデラから飛散し,遠く極東ロシア近海や朝鮮半島でも確認されている姶良丹沢火山灰(AT)など,列島の広い地域で見つかるテフラは広域テフラと呼ばれ,全国各地の遺跡や出土遺物に共通の時間軸を与える重要な手がかりとなっています。 - ■旧石器時代の巨大噴火と桜島の期限■
過去30万年間の巨大噴火に伴う広域テフラはおよそ17が知られていますが,約30万年前の加久籐カルデラ,約8万5,000年前の阿多カルデラなど実にその3分の1が鹿児島県内を噴出源としています。
これまで県内で発見されている最古の人類の営みは,種Ⅳ火山灰の下から,焼けた礫が集まった礫群(れきぐん),磨石(すりいし)や敲石(たたきいし),石皿(いしざら),石斧などが発見された種子島の横峯遺跡・立切遺跡であり,約3万1,000年前とされています。
最終氷期の最寒冷期直前,約2万5,000年前に鹿児島湾奥で大規模な火山噴火が起こりました。南九州一帯を広く覆っているシラスはこの噴火に伴う入戸火砕流(いとかさいりゅう)の堆積物です。
この爆発で噴出した姶良丹沢火山灰(AT)は大気中に高く舞い上がり,細かい粒子が太陽の光を遮り,地球の寒冷化の要因になったとも考えられています。南九州を飲み込む火砕流を再現した指宿市のCoCo橋牟礼のシュミレーション映像は,出水市上場遺跡,松元町前山遺跡,喜入町の帖地遺跡など姶良カルデラ爆発以前に人々の生活があったことを知る者にひとしおの感慨を抱かせます。- 【地図 南九州の火山と遺跡】
- 今も活動を続ける桜島を噴出源とするテフラは大正3年をP1とし,これより古いものを順にP2・P3…と呼んでいます。このうち最古と考えられているのがP17です。約2万3,000年前に噴出したとされ,財部町の耳取遺跡,末吉町の桐木遺跡ではこの直下の層から氷河期に生きた人々が使用した剥片尖頭器と呼ばれる槍先形の石器や蒸し焼きに用いた礫群が多数見つかっています。また東回り自動車道建設が進む大隈半島北部の調査では約2万1,000年前のP15,約1万6,000年前の燃島テフラとともに特徴のある石器群が出土し,後期旧石器時代の生活の移り変わりを知る手がかりとして期待されています。
- ■縄文時代の火山噴火と環境■
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踊場遺跡の文明ボラ直下の畑跡
大中原遺跡のアカホヤ火山灰に埋まった
炭化木(根占町教育委員会提供) - 最終氷期以降,激しい寒暖の変化が繰り返される頃,約1万1,000年前に桜島の北岳から噴出したのがP14(通称サツマ火山灰)です。鹿児島県内では,このサツマ火山灰の下から加世田市の栫ノ原遺跡,鹿児島市の掃除山遺跡をはじめ全国的には希少な縄文時代草創期の遺跡が数多く見つかっています。
サツマ火山灰の降灰後,前平式土器などに代表される貝殻文円筒土器の時代を迎え,森林環境に適応した生活が発達します。鹿児島市加栗山遺跡,松元町前原遺跡など縄文時代早期前葉を代表する遺跡では,このサツマ火山灰に掘り込まれた竪穴住居の跡が発見されています。霧島市上野原遺跡では,竪穴住居の跡にP13が堆積していることから,約9,500年前に住居が埋まったことが解り,遺跡の年代を推定する有力な証拠を得ることができました。
その後,南九州では壺形の土器や土製の耳飾とされる耳栓(じせん)などをもつ縄文時代早期の文化が育まれました。7,500年前のP11やその直下に見られる蒲生町の米丸マールから噴出した米丸スコリアは,このような南九州の縄文時代早期の後葉を知る大きな手がかりとなることが期待されています。
約6,000年前,氷河期以降の温暖化はピークに達します。過去1万年間で地球上最大規模の火山噴火とされる約6,300年前の鬼界カルデラの噴火は,アカホヤ火山灰を列島の広い地域に降り積もらせました。鹿児島県南部を襲った幸屋火砕流は植生や自然環境を大きく変えたともいわれ,根占町大中原遺跡では火砕流に埋もれた炭化木が発見されました。
また噴火に伴う地震の振動で柔軟化した水と混ざった地中の砂や礫が地表に噴出す液状化現象が吾平町原口岡遺跡で見つかっています。カルデラに近い種子島などで見られるアカホヤ火山灰中に噴出した噴礫もこのような液状化現象によるとされています。
縄文時代にはこの他,約5,500年前の池田カルデラの爆発による池田降下軽石,縄文時代中期,霧島に起源する約4,200年前の御池軽石,縄文時代後期,開聞岳の最初期の噴火とされる4,000年前の黄ゴラなど,範囲は限られるものの,地域文化の変遷を知る上で欠くことのできないテフラです。 - ■弥生時代以降の火山噴火と災害■
- 指宿市の新番所後2遺跡では灰ゴラの下から縄文土器が,上からは弥生土器が出土しました。灰ゴラは約2,000年前の開聞岳の爆発に起源するとされます。以後開聞岳は弥生時代から平安時代にかけて,数度の爆発を起こし,鹿児島県南部を中心に火山灰が見つかっています。大根占町の山ノ口遺跡では暗紫ゴラが弥生時代の山ノ口式土器に覆い被さった状態で見つかりました。
指宿市の橋牟礼川遺跡では古墳時代終末の7世紀後半と平安時代の貞観16年(西暦874年)に被災した集落跡の家屋や畑,道,集落を襲った泥流などが発見され,当時の人々の生活,噴火による災害発生の過程が明らかにされました。福山町藤兵衛坂段遺跡,財部町踊場遺跡では文明年間の1471年頃に桜島から噴出した文明ボラと呼ばれる黄色の軽石層の下から噴火によって放棄された畠跡が見つかっています。火山灰に埋もれた遺跡は,災害を乗り越え力強く生き抜いてきた人々の末裔である私達に,いま歴史の真実を静かに語りかけています。 - 用語解説
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米丸マール(よねまる) 蒲生町米丸に所在し,約7,500年前噴火した小規模の噴火口である。 - (文責)中原 一成
考古ガイダンス第4回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第4回 縄文中期の様相 - ■豊かな森とともに■
火炎土器(かえんどき)と呼ばれ,北陸地方に分布する馬高(うまたか)式土器や,関東から中部地方に分布する勝坂(かつさか)式土器に代表されるような立体的で造形的な土器の一群は,縄文時代中期のものです。そしてこれらの土器は中期だけでなく縄文時代を代表する土器としてもしばしば取上げられます。
およそ1万年以上も続いた縄文時代は,草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6時期に分けられ,中期は今からおよそ5,000年~4,000年前にあたります。
この時期は気候的にも安定しており,人々は豊富な自然の恵みの中で生活していたといわれています。安定した自然環境の中で豊かな森とともに暮らし,植物質の食料を多く利用していました。- 【地図 阿高式土器が出土する遺跡】
- このことは,植物を採取するための打製石斧(だせいせきふ)や植物を加工するための石皿(いしざら)・磨石(すりいし)・敲石(たたきいし)などの生産用具が多く出土することことからも容易に想像されます。
- ただし,この豊かな森の恵みは人間だけのものではなく,イノシシやシカなどの動物にとっても同じであり,人々はこれらの動物も食料としていました。
長野県などの遺跡では,炭化したパン状やクッキー状のものが出土しており,これらの成分を分析した結果,木の実・動物の肉・鳥の卵などを混ぜて作っていたことがわかっています。
植物質の食料は,その種類や量の豊富さ,あるいは利用効率のよさなどから,縄文時代を通して,人々の最も安定した食料資源でした。このような食料が安定して供給されるようになってきたため,中期は東日本を中心に縄文時代の中でも繁栄のピークを迎え,遺跡の数もほかの時期に比べて圧倒的に多くなります。 - ■中期の土器■
この時期の九州の状況をみると,東日本に比べて遺跡の数や集落遺跡は極端に少ないです。この中にあって九州の中期を代表する土器とされるのが,熊本県城南町の阿高(あだか)貝塚出土の土器を標式とする阿高式土器です。九州の中期と言えばすぐ阿高式土器と型式名が出てくるくらい,九州の中期を代表する土器として,その位置付けは確立されています。
阿高式土器は,太形凹線文(ふとがたおうせんもん)と呼ばれる,曲線や直線を組み合わせた文様を,指先状のもので土器の上半部を中心に描いているものが多く,中には器全体に文様を描くものもあります。器形は深鉢が多く,まれに浅鉢がみられます。- 【写真 阿高式土器(横川町中尾田遺跡】
- また,この阿高式土器の太形凹線文の間に押引文(おしびきもん)や,ヘラ状のものによる細い沈線文(ちんせんもん)を施す土器もあります。大口市の並木(なみき)遺跡から出土した土器を標式とする並木式土器です。この並木式土器と阿高式土器の前後関係は,その文様の構成や,いくつかの遺跡での層位的な上下関係から,並木式が古く,その次に阿高式土器が位置付けられています。そして,凹線文あるいは沈線文を施す阿高式系土器として後期初めまで続くことになります。
- ■人と物の行き来■
阿高式土器の特徴のひとつとして,土器の平らな底の外側に細かい凹凸がみられるものがあります。これは土器を作るときに回転台として鯨の背骨を利用し,そのときに鯨の背骨の跡がついたものです。その背骨の直径は15センチメートル以上と考えられるような大きなものもあり,大型の鯨のものであったことが想像されます。このような土器の底部は九州の西側部分に多く,東九州にはほとんど見られません。
【写真 土器の底部の文様】
(下:鯨の背骨の文様,左上:木の葉の文様,右上:編物の文様)- なお,阿高式土器を出土する遺跡は海岸部に多く,貝塚を形成する遺跡も多くあります。海とかなり慣れ親しんだ人々であったのかも知れません。しかし,鯨の背骨の跡がついた土器の底部は海岸から離れた山間部の遺跡からも出土している例もあります。
- 阿高式土器のもうひとつの特徴として,胎土(粘土)の中に滑石(かっせき)というやわらかい石の粉を混ぜているものが多いことが上げられます。これは阿高式土器の直前の土器である並木式土器にも見られる特徴です。九州ではほかに滑石を混入する土器として,縄文前期の曽畑(そばた)式土器がよく知られています。このことは,以前は曽畑式土器に後続するのに並木式土器が位置付けられていましたが,現在ではその間にほかの形式の土器が入るとみられています。
滑石は九州では長崎県の一部の地域でしか産出しません。滑石を含んだ土器の一群が九州一円に分布しているということや,鯨の背骨が山間部の遺跡まで分布していること,次に述べるように,瀬戸内地方の土器が南九州まで分布していることとも考え合わせると,当時もかなりの範囲で人の行き来があったことが想像されます。現代のわれわれが考える以上に,直接的あるいは間接的に交流があったのかも知れません。 - ■最近の研究から■
【左 並木式土器(横川町中尾田遺跡)】
・上が太形凹線文と押引文
・下はヘラ描沈線文
【右 阿高式土器(福山町一本松遺跡)】
※福山町教育委員会所蔵
- 阿高式土器が成立するまでの九州の土器文化についてみてみますと,南九州を中心に出土する春日(かすが)式土器は前期に位置付けられていました。春日式土器は胴部ですぼまり,口縁部に向けて広がりながら口縁端部でまたすぼまる,という形です。これは,瀬戸内地方に分布の中心を持つ船元(ふなもと)式土器と同じような形であり,以前からその関係が指摘されていました。また,最近の調査成果やその研究では,春日式土器の中には船元式土器の中の一部とほぼ同時期のものがあり,その次に並木式や阿高式がくるということです。これにより,中期の初めから中頃に位置付けられていた並木式土器と阿高式土は後半以降の時期になる可能性も考えられています。阿高式土器は並木式土器の次にくることは間違いないものと思われますが,並木式土器の系統や発生については今後研究しなければならない問題です。
現在のところ,鹿児島県では中期の遺跡は少なく,一つの遺跡においても多量の遺物が出土する例は極端に少ないです。このことは東日本の状況と比べて対照的です。これらの要因については,今後の調査例の増加や研究の進展に期待したいと思います。 - (文責)井ノ上 秀文
考古ガイダンス第3回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第3回 実験考古学が私たちに伝えるもの - ■実験考古学とは・・・■
発掘調査は土の中に眠っている土器や住居跡等様々な情報を掘り起こし,その情報を基にして各時代の様相を明らかにしていこうとするものです。
しかし,土の中に眠っている情報は限られています。情報化社会といわれる現代は,急速なパソコンの普及とともにインターネットで誰でも身近に様々な情報が瞬時に得られ,一つのキーワードに対して数多くの情報が得られる社会です。それに比べて土の中から得られる情報は形に残るものが中心で,ごく僅かです。- 【写真 集石(上野原遺跡)】
- 各時代の様相を明らかにしていくためには,この僅かな情報を大事にし多角的に比較検討していかなければなりません。その検討方法の一つが実験考古学です。
- 実験考古学は,発掘調査で出土した遺物や遺構の持つ性質を探るためにその遺物や遺構の制作方法や使用方法を復元し,それらを使用したときの効果や有効性を確かめたり,ある考古学上の考え方や仮説に対しその考え方や仮説が正しいかどうかを確かめるために行われるものです
たとえば,貝塚などでシカの角でできた釣り針が出土することがあるが,シカの角は石器を加工するときに使われるほど硬いものです。
この硬いシカ角製の釣り針をどんな方法で作ったかを調べるために,当時可能な方法で作り,使用実験をして漁具としての有効性を確かめた例があります。
また復元された住居に火をつけ,消失した柱の倒れ方や生活道具の状態を記録し,実際に発掘で調査された住居と比較検討することも試みられています。- 【写真 復元した連穴土坑(上野原遺跡)】
- このように実験考古学は,遺物や遺構から得られた目に見える情報から目に見えない行動や時間等を想定し当時の生活を復元することで,遠い昔のことを身近なものにするのです。
- ■竪穴住居の復元■
発掘調査の醍醐味の一つに住居跡の発見があります。住居跡からは,当時の生活を知るための様々な情報が得られるからです。平成9年5月には,上野原遺跡で約9,500年前の住居跡が52軒発見され話題になりましたが,鹿児島県内の縄文時代における竪穴住居跡の発見数は,平成12年2月現在71遺跡・395例にものぼります。
竪穴住居は,地面に掘り込んだ竪穴の上に上屋を覆って家を建てる住居です。発掘の際,上屋の部分は発見されることはほとんどありません。(低湿地の遺跡や消失し炭化した柱が残る場合もある)- 【写真 上野原遺跡の竪穴住居復元】
- しかし,地面に掘り込まれた竪穴・柱穴・炉跡等を詳しく調べることで,柱の太さや深さ・角度・数等によって上屋の大きさや形を想定することができます。
- また柱等の材質については,どのような材質のものが使われた可能性が強いかを土壌を分析することによって調べることができます。更に上屋の構造については,世界各地の民俗例や土器・埴輪等に描かれた家の形から想定することができます。このように,多角的な分析をすることによりより正確な住居の復元が可能になります。
住居を復元した例は数多くありますが,居住性についても調べた例もあります。鹿屋市の前畑遺跡では,弥生時代の竪穴住居跡3軒と掘立柱建物跡8軒が発見されましたが,昭和63年夏にここで弥生時代の復元住居を建てています。復元には発掘調査で発見された竪穴住居を基に実測図によって竪穴の深さや柱の数を決定し,より正確な復元を行っていきました。完成後何回かに分けて寝泊まりを繰り返し,室内外の湿温の違いや火を焚いた場合の一酸化炭素や灰じんの割合を調査しました。その結果一酸化炭素の割合が0.001%以下,灰じんも一番多いときで1立方メートル当たり0.35mgで,人体には問題ないことがわかりました。これは発掘調査ではわからない,目に見えない「過ごし易さ」という感覚を実験によって明らかにしようとした試みです。 - ■集石と連穴土坑■
集石
石をたくさん集めて焼き,その中に肉などを入れた昔の調理場です。
ビストロ縄文集石・石焼きレシピ
1. 魚・肉などの食材を大きな葉で包む
2. 焼けた石の中に入れる
3. 上から土をかぶせる
※料理の前に,まず火で石を焼きます。
次に火を消して焼き石だけにしたうえで料理を始めます。- 縄文時代の遺跡では,大小多くの石が意図的に集められた「集石」という遺構が数多く発見されています。集められた石に焼けた痕があることや炭が発見されることから,石を焼いて蒸し焼きをした施設ではないかと考えられています。また縄文時代早期を中心に,大小二つの穴がトンネルで繋がった「連穴土坑」という遺構が見つかっています。トンネルの下の土が赤く焼けている場合があることから,火を使用したことが考えられます。また加世田市の栫ノ原遺跡では,動物の脂肪酸が検出されています。これらのことからこの施設は燻製を作るものであったと考えることができます。
連穴土坑
大小2つの穴をトンネルでつなぎ大きな穴のほうをたいて,小さな穴の上に肉をつるし,煙でいぶして薫製を作る施設です。- この二つの遺構は上野原遺跡の中で復元遺構として使われ,体験活動のひとつとして活用されています。集石では,集めた石の上で火を焚き,熱く焼けた石の上に食材を入れ,土でパックして蒸し焼き料理を作っていました。これまでの活動から,石を焼く時間や蒸す時間など天気や食材に応じて様々な対応が可能であることがわかってきています
また連穴土坑を使った調理では,鶏肉まるごと一羽の場合約5時間から10時間も燻せば完全に脂が抜け,見事な燻製ができることがわかりました。燻製という保存食ができるということは,食生活にとって重要な問題です。縄文時代の人々も私達現代人と同じように焼くという調理だけでなく,土器で煮たり,集石で蒸したり,連穴土坑で燻すといういろいろな調理方法を知っていたことが想像できるのです。 - ■実験考古学を生かす体験活動■
体験活動には,実験考古学によって得られた様々な情報が生かされています。遺跡から発見された遺物や遺構を基にすることと,実験考古学で得られたデータを数多く収集することで,遠い昔の生活により近づくことができます。また,このように確かな裏付けがあるからこそ,古代の生活体験が楽しく有意義なものになると思います。
- 【写真 われら縄文探検隊】
- (文責)森田 郁朗
考古ガイダンス第2回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第2回 国家形成と仏教 以前,テレビなどでお地蔵様の首がなくなるというミステリアスな事件が報道されたことがありました。鹿児島の寺・寺跡では,腕や首のない仁王像を見かけることがあります。これは失敗作やいたずらによるものではありません。
今から130年ほど前,明治政府が出した神仏分離令(しんぶつぶんりれい)を機会に,寺や仏像が取り壊されたからです。明治政府に鹿児島出身の高官が多かったため,鹿児島では特に徹底していました。しかし,過去にさかのぼれば政府により仏教が手厚く保護されていた時代もありました。
朝鮮半島から仏教が伝わり火葬の風習やその他新しい文化が広まりました。政府は社会の不安や動揺を仏の力で鎮めるため仏教を保護し,寺や僧侶らを管理しました。- 741年に聖武天皇(しょうむてんのう)は東大寺を総本山とする国分寺・国分尼寺を建設せよと命令しました。これを受けて,鹿児島にも薩摩国,大隅国,タネ嶋の三か所に国分寺・国分尼寺が建てられたのです。
川内高校裏門から踏切を渡って北へ延びる道が,奈良・平安時代のメインストリートでした。歩いてみると昔ながらの細い道は古代の条里(土地区画)の跡を残していますし,付近の畑には土器や瓦のかけらも落ちています。
このメインストリートの中央あたりが,古代の役所「国衙正庁」(こくがせいちょう)跡です。そして突きあたりを右に曲がると「薩摩国分寺」です。国分寺のある台地からは市街化した川内平野がよく見渡せます。聖武天皇の言った「必ずよい場所を選んで建てるように」にふさわしい場所でした。
- 【写真 薩摩国分寺復元予想模型/『薩摩国分寺跡環境整備事業報告書』川内市教育委員会より】
- 国府と国分寺跡発見のきっかけを作ったのは,川内高校の平田信芳(ひらたのぶよし)教諭と郷土史研究クラブの生徒達でした。彼らはまず,川内高校周辺の字絵図をつなぎ合わせ,実際にその現場を歩いて土器や瓦の落ちている場所を調べていきました。すると薩摩国府の碁盤(ごばん)の目状の土地区画が絵図上に浮かび上がり,遺物の出る範囲と一致しました。
- 昭和39年には川内高校の名で発掘調査が行われ,国府に関係する建物跡を発見しました。この実績が鹿児島県や県内の考古学者を動かし,県教委主体の調査が始まりました。鹿児島県で初めて行政が乗り出した調査でした。そしてついに平田教諭らは国分寺金堂を掘り当てました。
これまでの調査から,国分寺の範囲は,南北120~132メートル,東西121メートルで四方を大溝が,その外側に大垣が廻っていたことがわかりました。建物は中門,中金堂,講堂を中軸線上に置き,回廊の東に塔,西に西金堂が配されており,大和の川原寺の類型といわれています。
薩摩国分寺が建てられたのは,文献の研究から奈良時代終末ころだと考えられています。発掘調査で出土した瓦の年代からも裏付けられています。薩摩国分寺は他国に比べて少し遅れて建てられたようです。しかし,都から遠く離れた国分寺としての実情や,実際に国分寺を経営していた役人の動向はわかっていません。
現在は史跡公園として整備され,市民の憩いの場となっています。中に立ってみると華やかな国分寺の姿が目に浮かぶようです。 -
史跡公園として整備された薩摩国分寺跡
『薩摩国分寺跡環境整備事業報告書』
川内市教育委員会より
薩摩国分寺より出土した瓦の文様のいろいろ
『薩摩国分寺跡環境整備事業報告書』
川内市教育委員会より 休日には家族連れでにぎわう城山公園を下り数百メートル歩くと市公民館が見えてきます。この敷地内に石塔と首・腕のない仁王像などがひっそりと残っています。この一帯が大隅国分寺跡と言われています。
残念ながらここに国分寺の伽藍(がらん)があった当時の面影を見ることはできません。ここは,国の史跡「名勝天然記念物」として指定を受けています。
これまで数回の調査が行われ,北端と思われる溝跡や瓦の集中区などが見つかりましたが,まだその範囲や伽藍配置などはわかっていません。
多数出土する軒丸・軒平瓦は4種類あり,日向国分寺のものに似ています。- 【写真 大隅国分寺に残る康治元年銘の石造六重層塔と仁王像】
- 大隅国分寺を建てるに当たっては日向国の援助と影響を受けたものと考えられます。平成12年度から霧島市教育委員会により重要遺跡確認調査が行われており,今後,大隅国分寺について研究が進んでいくことでしょう。
タネ嶋の国分寺については,その位置,規模ともに全くわかっていません。
鹿児島の国分寺・国分尼寺についてはいまだ不明な部分が多く,これからの発掘調査や文献の研究によって新しい事実が解明されていくことでしょう。
信仰心の薄れてしまった現代の私たちには想像もつかないかもしれませんが,仏教は国分寺の建設の他に,人々の思想や文化などにも大きな影響を与えました。- 【写真 蔵骨器の出土状況(財部城ケ尾遺跡)】
- 火葬の風習もその一つであり,鹿児島では蔵骨器(ぞうこつき)の出土にあらわれています。蔵骨器には土師器(はじき)のカメや須恵器(すえき)の壺が使用され,土師器や須恵器でフタをします。中には軽石や自然礫(れき)でフタをする場合もあります。最近調査された財部城ケ尾(たからべじょうがお)遺跡では,土師器椀でフタをした須恵器の蔵骨器が出土しました。蔵骨器の中には焼骨と炭がおさめられていましたが性別等はわかりませんでした。当時は,現在のように火葬が一般化していないため,火葬されるのは高貴な身分の人に限られていたようです。もしかしたら国分寺建設に力を尽くした仏教をあつく信仰する有力者だったかもしれません。
- 用語解説
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神仏分離令(しんぶつぶんりれい) 政府が神道国教化のため神社を寺院から独立した。 国分寺・国分尼寺(こくぶんじ・こくぶんにじ) 国家の平安を祈るために国ごとに建てた寺。 国府(こくふ) 国の役所があった場所。 伽藍(がらん) 塔・金堂・講堂など寺院を構成する建物。 蔵骨器(ぞうこつき) 洗骨あるいは火葬骨を納める容器。 - (文責)有馬 孝一・切通 雅子
考古ガイダンス第1回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第1回 農業開発総合センター - ■縄文時代晩期の様相■
金峰山から東シナ海に目をやると眼下に金峰町と吹上町が接した小高い大野原台地(おおのばるだいち)が開けています。現在,ここでは「食の創造拠点鹿児島の形成」の一環として鹿児島県農業開発総合センターが建設されつつあります。
それに先立って,現在,農業開発総合センター遺跡群の発掘調査が行われています。ここは,23の遺跡が確認され,旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代・古代・中世の遺構や遺物が出土する複合遺跡です。今回は,その中でも縄文時代晩期に注目してみたいと思います。
県内で確認されている縄文時代晩期の主な遺跡としては,加世田市の上加世田(うえかせだ)遺跡・吹上町の黒川洞穴(くろかわどうけつ)・出水市の沖田岩戸(おきたいわと)遺跡・末吉町の入佐(いりさ)遺跡・鹿屋市の榎崎(えのきざき)B遺跡などが挙げられます。- 【写真 晩期の浅鉢形土器(入佐式土器)出土した時の様子】
- 縄文時代晩期は,今から約3,000年前から2,300年前にあたり,このころになると縄文時代の生活も次第に変化してきました。
- このことは,出土土器から知ることができます。土器には文様が描かれなくなり,形の種類も増え,煮炊き用の深鉢や盛りつけ等に使われたと思われるよく磨かれた薄くて硬い浅鉢等が作られています。これらの土器は時間の推移につれ,上加世田式・入佐式・黒川式土器と変化していきます。
- この後,本格的な水田での米作りが始まる弥生時代を迎えることとなります。
- ■謎の柱穴跡■
農業開発総合センター内の遺跡群の中では,諏訪牟田(すわむた)遺跡・諏訪前(すわまえ)遺跡,建石ケ原(たていしがはら)遺跡を中心に縄文時代晩期の遺物や遺構が確認されています。
諏訪牟田遺跡と諏訪前遺跡は,大野原台地のほぼ中央部に,建石ケ原遺跡は東部に位置し,標高約50メートルで,現在,農業大学校の研修棟や学生寮が建設中です。
諏訪牟田遺跡と諏訪前遺跡では,入佐式の土器片や石器等が多く出土しています。中でも緑色の石で作られた管玉(くだだま)・勾玉(まがだま)・丸玉,土製垂飾品(どせいすいしょくひん)は注目されています。また,農工具(鍬)として使用されたのではないかと思われる打製石器も出土しています。- 【写真 柱穴列/5つの柱穴が並んで検出された。柱穴の深さや埋土を調べるために半分に切っている】
- 遺構としては,柱穴列(柱穴が3~6個一列に並んでいるもの),竪穴住居跡,一間×一間の掘立柱建物跡,焚火跡(たきびあと),土坑,埋設土器などがあります。建石ケ原遺跡では,晩期としては非常にめずらしい道跡と思われる遺構が発見されています。
- 柱穴列は,柱穴3~6個が一列に並んで検出されるものです。諏訪前遺跡と諏訪牟田遺跡で,それぞれ9か所が確認されています。これらは,分布域と並んでいる方向の関係から2つのグループに分けられます。このことは作られた時期差を示すものではないかと考えられます。こうした柱穴列は,全国的にも類例を見ない遺構で,用途については,周辺遺物の状況や同時期の竪穴住居跡が1基しか発見されていないことなどから生活遺構としてとらえ,柱穴の深さからしても居住用の建物としての可能性が指摘されています。
- ■埋設土器と道跡遺構■
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晩期の深鉢形土器(入佐式土器)
埋設された状態で出土したもの
左の埋設土器の埋土を完掘 - 埋設土器は諏訪前遺跡で1基,諏訪牟田遺跡で3基が確認されています。これらは,地面に掘られた穴の中に深鉢形土器を埋めたものです。丁寧に埋められていることや底部が打ち欠かれていることなどから,埋葬に関わる遺構ではないかと考えられています。
道跡遺構は北北東から南南西にかけて弓なり状に130メートル検出され,幅は約3メートル,深さは約30センチメートルの浅い溝状です。底面には硬化面が見られましたが,この硬化面は開聞岳噴出物の灰ゴラで覆われています。この灰ゴラは縄文時代晩期から弥生時代前期頃の噴出物で,埋土からは晩期の遺物が出土していることから,晩期としては非常にめずらしい道跡と考えられます。 - ■農業開発総合センター■
- 農業開発総合センターには,耕種試験研究施設や農業大学校などが整備されています。これからの農業を支える技術や担い手となる人財育成の拠点となっていくところです。
これまでの発掘調査から,この大野原台地では縄文の太古より人々の生活が営まれていたことが分かってきています。先人の息吹を受けながら,次世代に向かって情報を発信していく新生大野原台地の完成も間もなくです。
農業大学校は平成15年春開校,試験研究施設は平成17年度末開設を目処に整備が進められています。 - 用語解説
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土製垂飾品
(どせいすいしょくひん)土(粘土)で作られた特殊な形をした小型のもので,穴が開いていることから首飾りと考えられる。 灰ゴラ(はいごら) 縄文時代晩期から弥生時代前期の頃にかけて開聞岳が噴火した時の火山灰。 - (文責)山崎 省一